「わげもん 長崎通訳異聞」

面白いドラマが始まった 「わげもん 長崎通訳異聞」 第一話を拝見したが時代設定がよい。271875780_4484715844989455_2841206791580594565_n.jpg 時代は幕末に入る数年前の嘉永2年3月25日(1849年4月17日)のアメリカ軍艦プレブル号が長崎に入港する直前から始まる。 ドラマではペリー来航時に活躍する森山栄之助などの名も散見される。 アメリカ軍艦プレブル号が長崎にやってきたのには理由がある。 嘉永元年5月2日(1848年6月2日)アメリカの捕鯨船ラゴダ号が座礁し、5日後に乗員30人中15人が長さ7m余りの3艘のボートで松前の北西30km程の小砂子村に上陸した(残り15人は死亡)。一旦は薪や食料を与えて立ち去らせたが、再度上陸したため保護し、松前藩では藩主が5月10日に江戸の幕府に報告し指示を待つ。保護のあいだに3人が2回にわたって脱走し捕らえられては牢に入れられた。幕府から松前藩江戸藩邸へ6月2日付で長崎へ移送する様指示が出されたので上記15名を長崎に送る。15人は長崎に送られるが、逃出して捕獲された3人は拘束状態のまま移送された。長崎では2人が死亡し13人になっていた。 この経緯は長崎では同年8月9日に英語が分るオランダ商館長が聞取り、提出したオランダ語の口述書が残っている。 オランダから通報を受け、翌嘉永2年3月にアメリカ軍艦プレブル号が長崎へ引取りに来航した。 しかし日本とアメリカは当時国交がないのでオランダ商館経由で彼等漂流民を引渡し、プレブル号は4月5日出帆している。  引き渡した中には、解放された13人以外に、蝦夷地に密入国し長崎に送られていたラナルド・マクドナルドもいる。 史実ではマクドナルドは日本人に英語を教えたいと言う自身の意志で日本に密入国し、長崎では抑留中に通詞14人に英会話を教えている。日本人に英語を教えた最初のアメリカ人と言われるゆえんである。 ドラマの中での英語教授の場面も描かれ、森山栄之助など何人か英語が喋れる人物が登場している。 ドラマの設定では、解放された13人以外に、別にもう一人が長崎で牢から逃走し匿われているという設定で、次回からの話に繫がる。 僕にとって面白いのは、出島のオランダ通詞部屋がどう描かれるのかと、モーニッケの登場である。 出島は大方が復元されているが、オランダ通詞部屋は出島の端にあり残念ながら現在は道路になっていて復元されていない。 271872598_4484715798322793_8372019067596953015_n.jpgモーニッケは1814年7月27日生まれなので、ドラマの1849年では35歳前後となる。役者は若干老けて見えていた。 ところで、僕の先祖縁者にオランダ通詞の今村家、楢林家がいるのだが、このモーニッケに大いに世話になった人物がいる。 佐賀藩医・楢林宗建は、日本にジェンナー式の種痘を普及させ、わが国種痘の開祖と称されている。 弘化4年(1844)佐賀藩内に痘瘡が流行したとき藩主に牛痘苗の輸入を進言し、嘉永元年 (1848) 年に来日したこのオランダ医師モーニッケに種痘法を学ぶ。液性での種痘を試みるが失敗し、翌嘉永2年にモーニッケの援助により痘痂(液性ではなくかさぶた)をバタビアから取寄せ、牛痘法による種痘に成功する。 この成功により、たとえば緒方洪庵嘉永2年(1849)11月、楢林宗建の開発した痘苗(ワクチン)を京都経由で導入し大坂古手町に除痘館を開設、天然痘ワクチンが日本中に広まっていく。 こんな感じで、この「わげもん 長崎通訳異聞」は、オランダ通詞に話を介在させ、様々な物語に展開していくのではないかと期待している。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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