1)益次郎の生まれた場所
生誕地は2説ある。
2)長井雅楽に対する思い・評価
46才の病床で書いた長井(45歳で屠腹)の辞世の意味。
3)写真はないのか
4)山本軍三郎とその家族
益次郎の門人であり遺言により後継ぎと決定
1)生誕地について深く言及した書は少ない。
周防国吉敷郡鋳銭司村字大村と吉敷郡秋穂村字天田に出生地の碑が建っている。
・「大村益次郎先生事跡」村田峰次郎(大正8年)は、「鋳銭司村」
・「大村益次郎先生小伝」井上清介(昭和16年)は、「鋳銭司村」
・「大村益次郎」大村益次郎先生伝記刊行会編(昭和19年)は、2説あるが「敢えて深く詮索せず」、同書には適々斎塾姓名録が掲載され 益次郎が出身を「防州吉敷郡秋穂」と自署している。
・「大村益次郎」糸屋戸寿雄(昭和52年)は、「鋳銭司村」、但し同書にも適々斎塾姓名録が掲載さている。
要は、母梅がその母の実家(吉敷郡秋穂)で益次郎を産んだかどうか、益次郎本人が親からどう聞いていたのか。
緒方塾入門時に吉敷郡秋穂 村田良庵と自署しており、他の断定できる史料がない限り、出身は秋穂と考えてよいと思うが。
2)長井雅楽の辞世の句を病床で愛用の手帳に書いている。何故か?
長井を思う時はいつも龍馬を連想してしまう。
文久3年2月6日に長井雅楽が屠腹申し付けられ、そのときの辞世は
君が為死する命は惜しからず 只思はるる国の行く末
龍馬は文久3年5月、横井小楠の客寓にて三岡と同席、君が為の国歌を声調妙に高唱する。
君が為捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行く末
龍馬の場合、自分の思想に影響を与えた航海遠略策の長井の死を悼み、伝え聞いた辞世の句を声調妙に謡ったものではないかと考えている。
益次郎はもともと長井の航海遠略策に共鳴していたのか? 或いは死期が同年齢からか、これからという時、同じく無念の内に死んだ同郷の士を思い浮かべただけなのか?
「大村益次郎先生小伝」では明治2年10月16日付けの三條宛て書簡を絶筆としているが、この辞世こそが益次郎の絶筆なのではないか?そうだとすると、益次郎の心境は?
3)益次郎は写真嫌いだったのか?、撮る暇がなかったのか?
太平洋戦争の直前から戦中にかけ、国防の観点からも軍制創始者として益次郎の色々な伝記の出版が目白押しだったが、昭和14年頃、益次郎が写っている集合写真が見つかったとの報道があった。
左から3人目 (後列2人目)
発見された写真は「大村益次郎」糸屋寿雄にも、三瀬家に伝わるものとして紹介されている。三瀬はシーボルトの孫高子の最初の夫の家。高子は嘉永5年に生まれ、写真発見前の昭和13年7月18日に88歳で亡くなっている。
額が秀でていることから益次郎のイメージと似ているようだが、以下のいくつかの点で、現在は本人とは違うとの結論。詳細は以下のHP参照
http://www42.tok2.com/home/uwajimanenrin/nenpyou/oomura/oomuramasujirou.html
①時の陸軍大臣クラスの人物が、15人の集合写真の真ん中ではなく端から3番目に写っていること。
②明治2年の襲撃される直前の写真とすると、廃刀令が出たのが明治4年8月であり、刀を持っていないのはおかしい。
③明治2年にしては、こうもり傘を持っている人が何人もおり、また、帽子を被っている人もいる。こうもり傘や帽子がこの頃に流布していたのか疑問。
では件の写真はいつどこで誰を撮った写真なのだろうか?
4)山本軍三郎とその家族
軍三郎は三田尻士族山本藤右衛門の次男で、益次郎の門人であるが、後を継ぎ大村松二郎と改名する。
その家と家族については詳細が分かっていないが、松二郎の戸籍では出身は山口県第九大区第四小区。
昔の三田尻村車塚などになる。
詳細はこれから追跡調査したい。
「 人気blogランキング 」 に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
励みになりますので、できれば以下のバナーもどうぞ