赤松小三郎の墓石

3週間ほど前になるが、洋式兵学者で、幕末いち早く議会政治の確立を提唱した赤松小三郎の墓石が、京都金戒光明寺の墓地から上田市に移された。

砂岩の墓石は劣化が激しいため新たに御影石で作り変えることになり、現在の墓石は赤松の故郷に引き取られ記念碑とすることになった。

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墓石に刻まれた文には、亡くなった原因として、「不幸終遭緑林之害而死」とある。

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今年10月末に咸臨丸子孫の会の静岡旅行で歴史作家の結喜しはや氏とご一緒したが、氏の、歴史読本「幕末京都 志士日誌」(2006年5月号)掲載の「桐野利明 『京都日誌』」によると、

漢書」の故事からの「緑林之害而死」は「盗賊の害にて死す」を意味する。

墓石は薩摩藩の門人たちによって建立されたが、慶応3年9月の事件当時、薩摩藩士が事件に関与していたのを知っていた藩士はどれくらいいただろうか?

いずれにしろ門人の中村半次郎が小三郎を暗殺したのが世に知れたのは、100年以上も経って半次郎の「京在日記」が公表されてからであった。

漢文に造詣の深い中井弘が筆を執った、墓石の側面と裏面に刻まれた文章は以下の通り。

文中の「剞○」は版木に刻んで刷るの謂いだが、相当する漢字が見つけられなかった。

先生姓源諱某赤松氏称小三郎信濃上田人

也年甫十八慨然志於西洋之學受業同國佐

久間修理及幕府人勝麟太郞東自江戸西至

長崎游方有年多所發明後益察時勢之緩急

専務英學於其銃隊之法也尤精嘗譯英國

兵練法以公于世會我邦兵法採用英式旦夕

講習及聘致先生於京邸取其書更使校之原

本而肆業焉今歳之春    中将公在京師也

召見賜物先生感喜益尽精力而重訂書成十

巻上之    公深嘉称速命剞○将以有用於

天下國家也蓋先生平素之功於是乎為不朽

可不謂懿哉不幸終遭緑林之害而死年三十

有七實慶應三年丁卯秋九月三日也受業門

人驚慟之餘胥議而建墓於洛東黒谷之塋且

記其梗概以表追哀意云爾

               薩摩受業門生謹識

先生、姓源、諱某、赤松氏称小三郎、信濃上田人

也。年甫十八、慨然志於西洋之學、受業同國佐

久間修理及幕府人勝麟太郞。東自江戸西至

長崎、游方有年、多所發明。後益察時勢之緩急、

専務英學於其銃隊之法也。尤精、嘗譯英國

兵練法、以公于世。會我邦兵法採用英式旦夕

講習及、聘致先生於京邸。取其書更使校之原

本、而肆業焉。今歳之春、中将公在京師也、

召見賜物、先生感喜益尽精力、而重訂書成十

巻、上之。公深嘉称、速命剞○、将以有用於

天下國家也。蓋先生平素之功、於是乎為不朽、

可不謂懿哉。不幸終遭緑林之害而死、年三十

有七、實慶應三年丁卯秋九月三日也。受業門

人驚慟之餘、胥議而建墓於洛東黒谷之塋、且

記其梗概、以表追哀意云爾。

               薩摩受業門生謹識

先生は、姓源、諱某、赤松氏、小三郎と称し、信濃上田の人である。

十八才になってすぐ、国の将来を憂いて西洋の学問を志し、学業を同国の佐久間修理と幕府人勝麟太郞に受けた。

東は江戸より西は長崎に至って遊学すること数年にして、才を発揮するところが多かった。

後に、益々時勢が差し迫ってきたことを察し、専ら英学の中で銃隊の兵法を研究する。

精進して過って「英国歩兵練法」を翻訳し、世に公にした。

我が邦(薩摩藩)の兵法に英国式を採用し朝夕講習するに及んで、先生を京都藩邸に招聘した。

先生は、「英国歩兵練法」を用い、更にこれを根源から検討して直さしめ、学業を自在に行った。

今年春、中将島津久光公が京師におられるとき、先生を召見し物を賜ったが、先生は感激ひとしおで喜こび、益々精力を尽くし、「英国歩兵練法」を重訂して十巻と成し、これを久光公に上呈した。

久光公は先生を深く嘉し、将に天下国家に有用であるとして、速に印刷を命じられた。

蓋し先生の日頃の功績であり、此処に不朽の名声を欲しい儘にしたといってよい。

不幸にして遂に盗賊の害に遭い亡くなられた。年は37才であった。実に、慶応三年丁卯秋九月三日のことである。

学業を受けていた門人は驚慟するあまり、小議して墓を洛東黒谷の墓地に建立し、且つ、先生の梗概を記し、以って追哀の意を表わすばかりである。

               薩摩藩門人謹識

墓石移設のニュース報道は、

上田ケーブルテレビジョン http://www.ueda.ne.jp/movie/f201112/mm1208-3.html

以下は、信濃毎日新聞より、

上田出身の幕末の洋式兵学者で、議会政治の確立を提唱した赤松小三郎(こさぶろう)の古い墓が7日、京都市内から上田市へ運ばれ、同市常磐城3の丸山邸敷地内にある土蔵に置かれた。墓は砂岩でできていて劣化し、放置しておけば崩れてしまう恐れもあったため、上田市民有志らでつくる「赤松小三郎顕彰会」が関係者の承諾を得て移した。土蔵は赤松小三郎記念館として来年3月に開館し、墓を記念碑として公開する予定だ。

 赤松は1831(天保2)年4月、上田藩士の家に生まれた。江戸へ出て勝海舟に師事。「英国歩兵練法」を翻訳し、薩摩藩士に洋式兵学を教えた。議会政治の確立を幕府側に提唱したが、67(慶応3)年、倒幕を目指した同藩士桐野利秋らによって京都で暗殺されたとされる。37歳だった。

 墓石は京都市の金戒(こんかい)光明寺の墓地にあった。7日午前9時ごろ、トラックで到着。京都市の石材業者がクレーンで慎重に降ろし、2時間近くをかけて土蔵に設置した。高さ1・25メートル、重さ700キロほど。薩摩藩の教え子たちが建てたとの趣旨が石に刻まれている。側面や背面には赤松の経歴や薩摩藩士を指導した功績も記されている。顕彰会の伊東邦夫会長(77)=上田市緑が丘=によると、赤松が強盗に襲われて殺されたといった記述もあるが、本格的な解読は今後行うという。

 顕彰会ができた2003年、同寺側から墓石が劣化していることについて相談があり、同会は「上田の人に赤松をもっと知ってもらうために活用しよう」と、移設と保存を決めた。同寺の墓は新しい御影石を使って近く復元するという。

 記念館にする土蔵は、明治期建築の2階建てで約60平方メートル。1階に記念碑を置くほか、赤松の等身大の写真や、佐久間象山から届いた手紙の写しなどを並べる予定。11月20日に開館する予定だったが、同月8日未明に丸山邸の別の土蔵から出火する火災があり、延期になった。今回の土蔵は火災の被害はなかった。

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