三吉玉樹・トモ夫妻とその家族

最近はfacebookばかりでブログを書くのをすっかり失念していた。 facebookとブログとは各々利点が異なり役割が違う。 ブログは記録として残り、かなり後からの検索も可能だが、facebookはこの点で見劣りがする。 facebookはむしろ特定グループ内での交流の素早さに重点が置かれ、そこに利点がある。 今日31日は三吉玉樹とトモ夫妻の月命日。 三吉慎蔵の娘トモは、明治32年(1899)10月31日没、享年35。       49歳の三吉慎蔵
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      20歳前後の三吉トモ
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その夫玉樹は、昭和10年(1935)7月31日没、享年73。 夫婦の命日が同じ日で、しかも31日なのは確率としてはかなり低い。 31日は年に7回しかない。日めくりの過去帳で毎日供養する場合、年に5回抜けることになる。 その意味では31日という日は、供養し足りないような気もするし、逆に貴重で特別な日としたい思いも生じる。 二人は、下関長府で明治25年(1892)1月7日に結婚し、その際、三吉家を分家し、玉樹が三田尻の山本家から三吉分家に婿に入った。 玉樹はもともと同じ三田尻の荒木新八の次男で、山本家に養子に入っていた。 このとき三吉家は、慎蔵が既に隠居し、信州上田にいる長男の米熊が後を継いでいる。 玉樹夫妻は、そのまま長府で慎蔵夫婦と一緒に住んでいたが、明治32年に病気がちのトモが亡くなるので夫婦で共に暮らしていた期間は短い。 その上、明治28年には、玉樹は大村益次郎から数代後の大村家に家職として、単身で東京で勤め始めたので、なおさらだ。 トモが亡くなると、玉樹の希望で分家は廃家となり、玉樹は山本家に復籍する。 この山本家は、大村益次郎が亡くなったあと、大村家をついだ山本軍三郎と関係があるらしい。 軍三郎は三田尻山本藤右衛門の次男で、益次郎の門人であるが、後を継ぎ大村松二郎と改名する。明治12年末に病のため海軍病院にて29歳で海軍少佐として死去している。この松二郎の戸籍では出身は山口県第九大区第四小区。 玉樹と軍三郎の関係を調査はしているのだが、今現在は個人情報保護法の壁で行き詰まり正確な確認はできていない。 三吉玉樹・トモ夫妻には、子供が一人おりその娘・梅子は明治27年に生まれている。 母トモが亡くなると、梅子は長府で祖父母の慎蔵夫妻に養われる。        10代半ばの梅子
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しかし、明治34年に慎蔵、明治44年に慎蔵の妻イヨが長府で亡くなると、家族同士で行き来のあった乃木希典に預けられ行儀見習いをする。        60代後半のイヨ
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1年後の希典の自刃の後は、大村家の家職になっている実父の山本玉樹と暮らしたようだ。その間のこととして、不謹慎だが、「大村のバカ殿様」という梅子の言が末裔に伝わっている。 この梅子は数年後、河島精一と結婚する。 精一の友人が長府出身で、その友人から梅子を紹介されたという経緯がある。 精一の祖父河島由路は、幕臣で、慶應4年に輪王寺宮を頭に頂いた彰義隊に参加し、戦死している。 梅子の祖父三吉慎蔵は、明治10年から13年間、北白川宮となった元輪王寺宮に御付・家令として仕えた。 結果的に、輪王寺宮を媒介として、孫の代で三吉家と河島家がつながっているようにも見える。 なかなか面白い歴史の綾だと思っている。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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