『三吉慎蔵日記』は清書されていて、十九巻と附属巻で構成されている。
清書の元になった日記原本は、今は存在が確認できていない。
最晩年の明治33年と明治34年の日記は、まだ翻刻されていない。
清書については、『三吉慎蔵日記』の明治30年と31年の5か所に関連の話が登場する。
〇2月16日 「日記案立野ヘ過ル十六年分ヨリ引合ノ事ニ付林氏一同新市ニテ会ス」
〇3月18日 「立野来宿過ル十六年分書抜受取ル」
〇6月30日 「金四円壱銭五厘、右明治十六年ヨリ同二十四年迄ノ日記草案祝儀トシテ立野氏ヘ直渡(二十枚ニ付十銭)」
〇12月28日 「十六年分日記精書受取ル」
〇明治31年3月18日 「立野ヘ十六年ヨリ十八年迄三百枚精書ノ謝儀相渡ス但壱枚ニ付壱銭宛也」
簡単に補足説明すると以下のようになる。
2月16日、日記案を、立野へ明治16年分(第四巻目)から依頼することについて、毛利家乗編纂主任であった林洋三氏一同と、新市(料亭)にて会合した。
3月18日、立野が自宅に来た。出来上がった明治16年分の日記草案を受け取った。
6月30日、明治16年から24年までの日記草案が成り、計803枚なので、1枚5厘として4円1銭5厘を、立野に手渡した。
12月28日、出来上がった明治16年分(第四巻)の日記の清書を受け取った。
3月18日、立野に、明治16年から18年までの300枚の清書の謝礼を渡した。1枚について1銭、計3円である。
この5か所以外には、日記の清書の話は『三吉慎蔵日記』には記述がないが、最後の十九巻が明治31年の日記であるので、明治32年頃迄までは清書が継続したことがわかる。
ところで、一巻から三巻までについては、『三吉慎蔵日記』に清書の記述はない。
一巻は天保7年・慎蔵6歳の時から始まり、三巻は明治15年までを記述している。
一巻から三巻を何時清書したとの記述はないが、日記の各条の記述から、いつ頃か類推することはできるようだ。
たとえば、
〇文久3年2月9日
京都ヘ至急御用向有之仕廻次第被差登候旨御達ニ付十三日出発ス村上百合勝熊野陣太朗同行ス・・・但シ百合勝事後チ福原家ヘ養子ト為り官軍大佐ニ至リ名ヲ和勝ト称ス・・明治十年西南大乱ノ節三月二十三日戦死ス
〇慶応2年6月
今般国家大事件ニ付宗家並ニ御四藩共岩国表ニ於テ御会議御開キ御国論一途之儀ニ付同所ヘ出張被 仰付候事
右決議記事ハ略ス詳細ハ宗家並ニ御家記ニテ明白ナリ
〇明治元年7月14日
今般御上京御行列其他御次第書ハ御家乗ニ譲リ略ス
〇明治元年12月7日
無滞勝山御殿ヘ御着御供申上候尚其節思召之旨御施行之件々ハ藩政書記ニ譲リ略ス
〇明治2年10月朔日
改正要路之件 公ヨリ御意書其箇条御沙汰次第ハ毛利御家乗ニ譲ル
〇明治3年12月20日
御滞京中公務之儀ハ別ニ御家乗有之ニ付略ス
また「詳細は家記に譲る」との補足が散見され、長府毛利家記である『毛利家乗』の記述を前提としている場面が登場している。
『毛利家乗』については、『三吉慎蔵日記』に以下の記述がある。
〇明治16年8月22日
市兵衛町御殿ヘ出頭シ御家記持参候事
〇明治16年9月11日
長沼ヘ従五位公御家記持参シ前文ヲ依頼ス
〇明治16年11月7日
午后市兵衛町御邸へ出頭ノ上林氏ヘ協議シ明八日午後精書之事ニ談決ス
〇明治21年8月2日
中山侍従忠光病死ノ次第書ヲ杉氏ヨリ尋問ニ付市兵衛町御邸家記之扣ヲ相廻シ候事
このことから、『毛利家乗』は、明治16年に一度清書したこと、明治21年には控えもある事が分る。
よって、
明治16年以降に家記の中身がほぼ確定し、初めて「家記に記述があるので略す」とすることができるので、従って『三吉慎蔵日記』一巻から三巻の清書は、明治16年以降と考えてよい。
しかしながら、一巻から三巻の清書の時期と、四巻から十九巻および附属巻の清書の時期とが大幅にタイムラグがあるのは、『三吉慎蔵日記』の各々の紙質からみて、考えにくい。
従って、四巻(明治16年分)を清書し始めた明治30年とは、それほど時期が遡らない気がしてくる。
であるとすると、
〇明治23年5月1日
「吉井次官ヘ伏見変動ノ日記持参シ取次へ相渡置候事」
の記事に見える『三吉慎蔵日記抄録』との関係が問題になってくる。
『三吉慎蔵日記抄録』は、
龍馬と一緒に上京し、寺田屋騒動を経て帰藩、龍馬暗殺後お龍を預かり、土佐まで送り届ける龍馬に関する一件を、記述した日記。
『三吉慎蔵日記抄録』は明治23年には出来上がっているので、、『三吉慎蔵日記』の清書が明治30年に近いとすると、清書前の『三吉慎蔵日記』原本を参考にして抜書きしたと考えられる。
実はもうひとつ、これが真実ではないかと思っていることがある。
『三吉慎蔵日記抄録』は明治23年までに出来上がっている。こちらは、作成段階で、備忘録や史料などから新規に作成した。
そしてのちに『三吉慎蔵日記』が明治30年目に清書される。もともと、原本の『三吉慎蔵日記』には、寺田屋騒動については記述がなく、清書の段階で、備忘録、史料などから、『三吉慎蔵日記抄録』も参照して見直し、『三吉慎蔵日記』に追加記述したのではないだろうか?
記述内容などからの推測なのだが、今後検討を進めたいと思っている。
今現在の僕の関心事は、『毛利家乗』と『三吉慎蔵日記』と『三吉慎蔵日記抄録』の各々の位置関係と、行方不明の『三吉慎蔵日記』原本のこと。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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