咸臨丸を描いた絵は、 実に多くあるが、一点不思議なことがある。
咸臨丸を建造したオランダで発見された咸臨丸の総帆画をみると、マストが3本。
船首側から、フォア・マスト、メイン・マスト、ミズン・マストと呼ぶ。
フォア・マストと、メイン・マストは一本の木でできているのではなく、各々3本の木をつなぎ合わせて成っている。木は下から2本目は、一本目の木の船首側に取り付け、3本目(一番上の木)も、2本目の木の船首側に取り付けられている。
ミズン・マストは、2本の木をつないであり、上の木はやはり船首側に取り付けられている。
マストの構造は、いろいろな場面で描かれた絵に見ることができる。
日本造船協会『日本近世造船史』『日本近世造船史』では第十五図「軍艦咸臨」と第十六図「軍艦開陽」の挿画を掲載したが、編集時に絵の写真を取り違えたため、上の絵は「軍艦開陽」と名付けられたもの。従って、実は「軍艦咸臨」
説明では、「此図の原本は、木村芥舟の所蔵に係る」とある。
ちなみに、第十六図の説明では、「原図は海軍中将男爵赤松則良の所蔵にかゝる」とある。
文倉平次郎 『幕末軍艦咸臨丸』の本編口絵文倉は、幕府軍艦絵巻の中に描かれた咸臨丸を画工が書き起こして写真にしたものとしている。
しかしむしろ、絵の構成(船の構造・背景)が同じであり、上の、『日本近世造船史』の咸臨丸の絵をデフォルメしたものと考えた方がよさそうだ。
咸臨丸水夫石川政太郎の描いたスケッチ画塩飽出身の水夫石川政太郎が、航海日誌風の手記に残した鉛筆画。咸臨丸の船型を明らかにしている。
上記の各絵は、孰れも、マストの上部の木は、船首側に取り付けられているのが分る。
ところが、鈴藤勇次郎の有名な「咸臨丸難航図」では、マストを構成する上の木はすべて、船尾側に取り付けられている。
咸臨丸難航図帆船では、マストを構成する上部の木はすべて船首側に取り付ける。船尾側には取り付けた例は見たことがない。
鈴藤勇次郎は、長崎海軍伝習所で航海訓練もし、実際に咸臨丸に乗って太平洋を横断し、しかも運用方であって咸臨丸の構造は熟知していたはずで、マストの構造についてこんな間違いをするはずはないと思う。
実は船尾側に取り付けられている絵は外にもある。
ブルック大尉の孫ジョージ・M・ブルック大佐所蔵の咸臨丸この絵は、鈴藤の「咸臨丸難航図」と同一の構図であり、難航図をまねて?描かれた絵と思われる。
鈴藤の難航図は、早くは明治31年発行の『旧幕府』第二巻第四号に挿図として掲載されている。ただし絵の右端には「鈴藤勇次郎画」の文字はない。小川一真が製版したときに署名を除去したのであろうか。
『旧幕府』の挿図
『旧幕府』の説明に、「太平洋上咸臨丸の図は当時の軍艦奉行並木村摂津守今の芥舟翁が秘蔵の水彩画なり写真せしは軍艦操練所教授方出役鈴藤勇次郎氏なり・・・」とある。
この挿画の説明について、『勝海舟 写真秘録』では、「一説には木村摂津守秘蔵の水彩画を鈴藤が模写したもの(旧幕府記)とも伝えられる」と記述している。
『旧幕府』の説明について、『勝海舟 写真秘録』の解釈のとおりであるとすると、水彩画は鈴藤が描いたものではなく、そもそも秘蔵の水彩画を鈴藤は単にそのまま忠実に写しただけなのであれば、誰が描いたか不明だが、元の水彩画が間違っていたということになる。
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