「花燃ゆ」8月2日放送 赤禰武人

今回の関心事は、赤禰武人奇兵隊の第何代総督かということ
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長藩は、文久3年(1863)5月10日の「攘夷実行」によって米船や仏船など無差別に砲撃を加えたが、3週間後に手痛い反撃を受け、馬関各地の砲台は破壊され軍艦は撃沈されてしまう。そして、この戦いにおいて、既存の藩士は隊伍を乱して退走など卑怯で戦意に欠けた姿を露呈する。これらのことを、長州萩藩主毛利慶親は世子定広と共に憂慮し、高杉晋作を登用し下関防禦を命じる。 命を受けた晋作は、来島又兵衛と諮り、下関の豪商・白石正一郎の援助を得て、士衆を糾合し奇兵隊を創設する。そして6月7日に晋作が自ら総督の任に当たる。 晋作は、この奇兵隊創設の功により、6月22日に政務座役の重職にも任命される。 赤禰武人はこのとき、萩藩重臣浦靭負の家老・赤禰家の養子になっていたが、奇兵隊士の確保に尽力し奇兵隊創設に大いに貢献した。初期の奇兵隊の構成は、下関の白石正一郎・廉作兄弟以外には、周防出身者が多かった。赤禰を慕っていた浦家の家臣の多くが参加したという。 ところが、奇兵隊の創設間もない8月16日に、下関の教法寺において奇兵隊と正規の藩士からなる先鋒隊が衝突し、双方の隊士が斬殺される。晋作は、この教法寺事件の責めを負って総督を更迭されることになる。 そして9月12日に河上弥一と滝弥太郎の両人が総督を引き継ぐ。ところが、河上弥一は生野挙兵に参加するため奇兵隊を脱走してしまう。ちなみに但馬生野での挙兵は破陣し、弥一は10月14日に憤死する。 赤禰武人は、出奔した河上弥市の後を継ぎ、第3代奇兵隊総督(奇兵隊総管御用取計)を仰せつかる。従って、このとき、滝弥太郎と二人で総督の任を担うことになる。 翌元治元年(1864)8月になり、前年の「攘夷実行」に対する報復として、砲撃を受けた四か国が艦隊を組んで下関に押し寄せてくる。長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖も続行していた。 赤禰武人は、奇兵隊を指揮して応戦するが、長州は圧倒的な戦力の差により四国艦隊に敗れ、8月9日より講和を開始する。 赤禰は、この戦いで攘夷が無謀であることを悟り、外国艦隊からの防備が当初の主目的で攘夷のための部隊でもあった奇兵隊の総督職を辞任する。 後任には、軍監を務めていた山縣狂介を推挙する。 ところが、ここに、赤禰に対する元治元年8月19日付の人事発令書がある。
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これには、政務座役に任命されているがそれを取りやめ、奇兵隊惣督に任命するという。 つまり、奇兵隊創設から、慶応元年(1865)正月2日に赤禰が馬関を脱走し筑前に遁れるまでの奇兵隊総督職は、滝弥太郎は途中で転属しているので、 初代 高杉晋作 2代 河上弥一、(相方 滝弥太郎) 3代 赤禰武人、(相方 滝弥太郎) 4代 山縣狂介 5代 赤禰武人 ということになる。 山縣狂介が短期間だが総督に任命されていたとすると、ドラマのとき、元治元年11月前後では赤禰は第5代総督ということになる。 追記:8/24 実は赤禰は四国艦隊との講和後、史料は確認していないが、最低以下の2回は、奇兵隊総督辞任願を提出している。 ①元治元年8月9日~19日の間(後任に山縣狂介を推挙、但し山縣は総督就任の手続きはしていないとの本人の言あり)、藩からは赤禰に対し8月19日付で改めて上記の総督任命の辞令がある。 ②元治元年10月10日、この時も結局、そのあと一人総督を継続しているので、藩は辞職願を受理していないことが分る。 結局、赤禰は、奇兵隊総督の職にとどまり、再任されたように見えるが後世からみれば慶応元年2日まで第3代総督を継続していたことになる、と結論してよさそうだ。  「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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