適塾にて

昨日、適塾関係で調べものをした。 まず、大阪府中之島図書館で資料を見て、適塾と、近くの除痘記念館を廻る。
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天然痘(痘瘡)は、昔から人類に惨禍を齎したが、昭和55年(1980)にWHOが根絶を宣言した。それは、英のジェンナーが1796年に牛痘種痘法を開発したことによる。 佐賀藩医・楢林宗建は、日本にジェンナー式の種痘を普及させ、わが国種痘の開祖と称される。 弘化4年(1844)佐賀藩内に痘瘡が流行したとき藩主に牛痘苗の輸入を進言、嘉永元年 (1848) 年に来日したオランダの医師モーニケに種痘法を学ぶ。翌嘉永2年、痘痂(液性ではなくかさぶた)をバタビアから取寄せ、牛痘法による種痘に成功する。 この成功により、 緒方洪庵は、嘉永2年(1849)11月、楢林宗建の開発した痘苗(ワクチン)を京都経由で導入し、大坂古手町に除痘館を開設する。
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この大坂の除痘館から、またたく間に痘苗は分与先として180余りの西日本各地に行き渡る。 その中に除痘館開設の嘉永2年11月に、神戸の正井正策にも分苗されている記録がある。 今回は、同じ正井一族出身のこの人物の調査が目的だったのだが、調査不足で残念ながら出直すことにした。 除痘館は、開設された古手町から、万延元年(1860)に適塾近くの現在の今橋に移転した。
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天然痘は幕末日本でも猛威を振るっており、慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇は在位21年にして崩御したが、死因は天然痘と診断されている(他殺説も存在し議論となっている)。 この大坂今橋の緒方家は、三吉慎蔵も訪問したことがある。 明治22年8月、四国松山に駐屯していた長府出身の品川氏章少将が病になったため、長府毛利家元敏の依頼で、長毛利家の家令であった慎蔵は東京から大阪に緒方惟準医師を訪ね、緒方医師を伴って松山まで同道した。 緒方惟準は緒方洪庵の次男で、このとき緒方病院の院長をしていた。
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品川少将は、慶応2年6月16日に高杉晋作の書簡を持って龍馬を訪ねた品川省吾のことだが、病は一時回復の兆しがあったが同年9月6日、残念ながら松山にて没してしまう。享年45。 明治の代に、長府人にとっての希望の星は何人かいたが、品川はその一人だった。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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