この二つを並べても関係はないように見える。
ただ、ここでいう海王丸は、明治24年(1891)2月今古堂で出版された小説『海王丸』のこと。
著者は半井桃水。
半井家は、表向きは対馬藩医の家柄でもあったが、実際は釜山倭館に代々常駐する対朝鮮外交官の役割を担っていた。桃水は、万延元年(1861)対馬藩に生まれ、父の仕事の関係で少年期を釜山で過ごす。青年になって大阪朝日新聞に入社するが、朝鮮語が堪能なことから釜山通信員、さらには同特派員第一号となって朝鮮でジャーナリストとして過ごしている。
小説『海王丸』は、明治22年11月26日から12月26日まで『東京朝日新聞』に連載されていた新聞小説をまとめたもので、このときには桃水は東京朝日新聞の専属の作家となっていた。
内容は、釜山駐在員時代に記者として見聞した亀浦事件(明治14年8月)、壬午の変(明治15年7月)、甲申の変(明治17年2月)に際しての報道活動を主にし、桃水の国際感覚の豊かさ、韓文化への深い理解と愛着が示されている。
今でこそ名をあまり聞かないが、桃水は当時人気の作家であり、たとえば、今の言葉でいう桃水の追っかけの一人に樋口一葉の妹・邦子がいた。
5年ほど遡るが、書物が好きで多感な姉の一葉は、明治19年(1886)14歳のとき、中島歌子の主宰する歌塾萩の舎に入門する。
ここ萩の舎では和歌の教授以外にも、『源氏物語』など日本古典の講義も行われ、日本古典に大きな影響を受けた一葉は、のちに小説を書くときには小説文体として雅俗折衷体を用いるようになる。
明治21年(1888)、同門の三宅花圃が小説『藪の鶯』刊行する。女性の文学といえば和歌か翻訳しか活躍の場がなく、小説を創作することがなかった当時、多くの話題を集めた。花圃は原稿料として33円20銭を手にした。一葉は、当時樋口家の女戸主であり、貧窮の中にあって安定した収入がなかった。それで糊口のため、花圃に影響を受け小説家になろうと決心する。
明治24年(1891)、妹邦子の友人野々宮菊子の紹介で、『東京朝日新聞』の小説・雑報記者であった半井桃水に弟子入りしたのだった。
ただ、桃水は大衆文学的であり、一葉の純文学とは相いれないように見えるが、『半井桃水研究』の中で著者塚田満江は、一葉の小説には、桃水が愛着を持った騎士貴族道である「花郎道」など韓文化からの影響が随所にみられるという。
その一つ、「たけくらべ」は明治28年から29年(1896)に「文学界」に発表され、森鴎外などの絶賛を得る。
ただ、このときは肺結核がすでに進んでおり、一葉は同年11月に病没してしまう。
時代は下り、「たけくらべ」は宝塚で公演される。
最初は、戦時中の昭和18年(1943)7月、内海重典脚本であった。
二度目は、昭和48年(1973)大歌劇場で、
三度目が、平成6年(1994)宝塚バウ・ロマンにて、ミュージカルとして公演されている。
一葉の作品と異なるのは、
小説「たけくらべ」が、新吉原近くの、大人になりかけの少年少女の淡い世界を描き、読者の「忖度」ができるようにその結末を明確としないが、
宝塚の「たけくらべ」は、美登里の姉の花魁を明確に「にごりえ」のお力とし、人物像も結末も明確にして、世間の苦労を知ったおとなの世界を描いていること。
参考:箕野聡子「関西文化に育まれた文学」
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