「青天を衝け」3回目を拝見した。
いよいよペリー来航に伴い、高島秋帆が出獄した。
高島秋帆の活躍場面はこれからもあるのだろうか。
ところで、私事だが僕の住居は宝塚市で武庫川沿いに住んでいる。これまでの27回の引っ越しの中で、武庫川に面して住むのは3回。なので親しみがあるのだけれど、この武庫川は宝塚市内を流れ、伊丹市と西宮市、尼崎市と西宮市の境を通り、摂海(大阪湾)へと注いでいる。
この武庫川の下流の河原では、江戸時代、尼崎藩により鉄砲・砲術の試射が行われた記録がある。
鉄砲や大砲を鋳造しては、その試し打ちを武庫川で行っていたようだ。
記録では、
明和4年(1767)、殿様御上覧にて鉄砲試射
安永5年(1776)、殿様御上覧にて鉄砲試射
安永10年(1781)、殿様御上覧にて鉄砲試射
天保2年(1831)、砲術2回
天保8年(1837)、砲術
天保10年(1839)、砲術4回、1回は殿様御上覧
天保12年(1841)、砲術
天保14年(1843)、大砲試射
嘉永2年(1849)、砲術2回
時代の要求からか、天保2年から鉄砲から大砲へと切り替わっている。
そして文久3年(1863)には、高島流砲術稽古の記録がある。
高島流の砲術を熟知した高弟が教授方になっているようだが、
正月に、教授8人、世話方7人で、門人延べ62人に砲術稽古をしている。
門人は尼崎領内の村人で名前も記録されている。
2月は6回の稽古があり、各回、教授は2から4名、門人の出席は6人から20人。
3月は9回、各回、教授は2人から4人、門人は4人から19人。
そして、4月1回、7月2回、8月1回砲術稽古をした。
摂海防御を担う尼崎藩なので砲術訓練は当然なのだが、村人までが門人となり稽古をしているのが面白い。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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