140年ぶりの再会

8月のお盆休みから9月のシルバーウィークまでの1ヶ月、幕末維新時の先祖の調査で大きな進展があったので記録しておく。
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掲げたのは、名刺作成のため描いて頂いたイラスト。左から右、後列から前列に、 ●小杉雅之進 幕臣。高祖母小杉鋹(トシ)の弟。咸臨丸の蒸気方、開陽丸の軍艦役、蝦夷共和国江差奉行並 ●松平容保   会津藩主、京都守護職。鋹の姪(弟小杉直吉の三女すえ)が容保の次男健雄に入嫁する ●細谷十太夫 仙台藩士、鴉組隊長。三男辰三が小杉雅之進の養子になる ●三吉慎蔵   長府藩士。高祖父。寺田屋で龍馬と共に幕吏と戦う。龍馬暗殺後、遺言によりお龍を預かる ●坂本龍馬   土佐藩郷士坂本権平・弟、脱藩。日本改革を目指し、各藩の間を周旋する。慎蔵とは盟友 ●大村益次郎 萩藩士。医師、洋学者、兵学者。三吉慎蔵の次女友子の夫玉樹の本家、家職先 ●河島由路   幕臣、大膳職御賄方。高祖父。彰義隊に参加し黒門詰で銃撃を受け戦死。妻鋹は小杉家出身 龍馬以外6名は小生の先祖・親戚になる 調査進展のきっかけは橋本進著「咸臨丸還る」。その主人公小杉雅之進の子孫にメールで連絡し、10日間ほど濃密なメールのやり取りをした。お互いが縁戚であることの確認と情報交換により、新発見が多々あった。その一部は、 ①北海道江差に高祖父河島由路の孫がいたとの資料がある。開陽丸子孫の会の関係者からの伝でそのご子孫が今も江差と函館にいることが判明した。 江差・函館の縁戚にとって祖父の代以前は手がかりがなく不明であったが、今回の情報提供で幕臣由路までのルーツが明確になった。しかも由路の妻の弟雅之進は、まさに地元の蝦夷共和国政府江差奉行並であったのだから、これを知った時の御子孫の驚愕は想像するに難くない。 また仕事も、復元した開陽丸の周辺メンテナンスに従事していたこともあり、奇縁というほかない。 今回の調査の結果、シルバーウィーク期間中の9/21に、江差で、小杉雅之進子孫、河島由路子孫が戊辰戦争を起点として140年ぶりに再会できた。 ②高祖母(河島由路妻、雅之進の姉)の名前が、「登志」か「鋹」か明確ではなかったが、小杉家の過去帳で「鋹」であることが確定した。 三井家の北三井家十一代高公の夫人は旧福井藩主・松平康荘の長女で名前が鋹子(としこ)であるが、幕末明治の頃は、いまは殆ど使われていないこの名がよく使われていたのであろうか。 ③雅之進が長崎海軍伝習所に三期生で入所した時、入所には幕府内での肩書きが必要であったが、兄直吉が「あらゆる伝を使って雅之進のために御賄御酒役世話役の職を用意した」とされていた。これは、直吉、雅之進の姉の夫、河島由路が大膳職御賄方であることが大いに関係した可能性が高いことが容易に想像できる。 ④仙台藩鴉組隊長・細谷十太夫と小杉雅之進との最初の縁が不明であったが、榎本艦隊が石巻湾に入港したときに、仙台藩と開陽丸との連絡係りになったのが十太夫であった。このときの信頼関係が、戦争終了後、十太夫が明治3年に北海道へ渡る時に、弘前の最勝院に幽閉されていた雅之進を訪ね、三男の辰三を雅之進の養子に決めた遠因になる。 ⑤松平容保の次男健雄に、直吉の三女すえが入嫁した経緯が不明であったが、鳥羽伏見の戦いの後、慶喜・容保が大坂から開陽丸で帰府のおり、蒸気役一等(機関長)だった雅之進との信頼関係ができたこと、また静岡時代に直吉を信頼していた慶喜の推薦があったこと、などであろうとの結論。 以上の経緯も踏まえ、たまたま、開陽丸子孫の会の函館・江差松前の訪問ツアーがあるとのことで、江差を訪ね親戚・子孫の会の皆さんと懇談し、会のご好意で途中からツアーに参加してきた。めったにない経験であり、非常に有意義な4泊5日であった。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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