大阪南部の史跡を訪ねて

昨日、大阪龍馬会主催の「大阪南部の史跡めぐりー吉田松陰ゆかりの地を訪ねてー」に参加して きた。 吉田松陰安政6年(1859)10月25日に 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」と辞世の句を詠み、27日に斬首された。 その同じ25日の史跡めぐり。 主なコースは、 ①泉南郡熊取  降井家  中 左近邸跡(中家、吉田松陰宿泊地) ②泉佐野  唐金家邸跡、墓所  食野家邸跡、墓所、いろは蔵 ③岸和田  岸 琴泉邸跡(勝海舟頼山陽訪問地)  儒者相馬九方住居跡、墓所  岸和田藩講習館跡(吉田松蔭訪問地)  塩屋甚兵衛邸跡(吉田松陰宿泊地)  岸和田城、  岸和田藩武家屋敷跡 などなど。
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講師の長谷さんは、正確さを期すため様々な史料を駆使して綿密な調査を行ったうえで、いつも丁寧な説明を心がけ、とても分りやすい史跡めぐりの案内をされる。 今回のコースで興味が尽きなかったのは、廻船業のまち、泉佐野である。 司馬遼太郎も「街道を行く 北海道の諸道」で詳説しているが、西鶴の日本永代蔵(1688年)に、大和の佐保庄の九介の話が出てくる。 勤勉な九介はよく働くので田畑の実りもよく、綿作をすれば人よりも沢山の綿の花のつぼみを付けた。 やがて、農業から「大和に隠れなき綿商人」になり、大坂の綿問屋を向こうに回して大分限者になる。 この当時、綿は「米の5倍」の利益があり、大坂近郊の農業を大きく変えていった。 狭い土地で綿の花を多く付けるには多くの肥料を必要とし、肥料は全て金銀を土に入れるようなもので「金肥」と呼ばれた。 初めは干鰯が使われたが、それでも追いつかず、鰊が用いられるようになった。 鰊は全て蝦夷地から運ばれる。最初は食料資源であったものが、次第に木綿を作る肥料に変貌していった。 肥料としての鰊は「身欠き」や、油を取って「しめ粕」に加工されるのを待って、船に積み込まれた。 泉佐野の食野家や唐金家はその鰊も木綿も扱った北前船の廻船問屋であった。 過っての食野家は、いろは48蔵を所有するほどの繁栄をみた。 写真は現存するいろは蔵
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当時の鰊漁を描いた屏風。鰊といえば江差だが、江差の鰊漁は明治33年がピークで、今は全く獲れない。
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