7/3 午後、飯沼一元氏、歴史愛好家の皆さんと一緒に、福島県立博物館を見学、その後皆で石田明夫氏の案内で鶴ヶ城内を訪ねた。
博物館にある容保像
福島県立博物館では、「白虎隊の図象学」と題し様々な白虎隊士自刃の図を展示しており、白虎隊自刃の描き方が時代によって変わる様が確認できる仕掛けになっている。
解説頂いた飯沼一元氏によれば、白虎隊の自刃図は幾つかの点で重要なポイントを含んでいる。
第1は、自刃の現場を知っているのは飯沼貞吉だけであるが、本人は自刃の状況をほとんど話さなかった。
白虎隊の自刃の絵は各種あるが、描き手は何らかの情報を手掛かりにして描いてきたということ。
第2は、絵を描いた目的は何か、が重要である。その目的も絵により次から次に変わっていく。
展示の中で、最初に描かれた絵は、穂積朝春(会津藩士一ノ瀬勘助(青龍隊)、絵描きの名門)による「白虎隊自刃図」。
氏によれば、穂積朝春は、東京護送前に猪苗代で3ヶ月間謹慎中している間に、同じ謹慎所にいた貞吉から自刃の状況を聞き、東京に移って謹慎中の明治2年に描いた。重要なことは、白虎隊の自刃の状況を聞いた通りに描いたこと。
穂積には幾つかの違う構図・バージョンの絵がある。その一幅を容保に献上し他は戦友に贈りそれらが今日残った、とのこと。
白虎隊の絵を見た容保の歌が残されている。飯盛山の自刃の地への途中に「白虎隊殉難詩碑」がある。
その題字部分で、容保は、詞書に
「たたかひ今を限りとや思ひけん十あまり五たりの男の子ども飯盛山にて腹きりて死したりけるをうつし画にせしを見てあはれさのあまりに」と書き、
「千代までとそだてし親のこころさへ推しはかられてぬるる袖かな 」と、歌を詠んでいる。
氏によれば、
この絵の与えた影響は大きく、白虎隊が飯盛山で死んだことは皆知っていてもどのようにして死んだかは不明であったが、この絵で明らかになった。リアルに描かれており、会津の中で白虎隊の物語は頂点に立つものとして受け止められたとのこと。
他にも、約30点の自刃図が展示されており、人数、服装、武器、総髪、背景などの観点から、自刃図の内容比較とその違い、制作にあたっての動機と目的を丁寧に解説頂いた。特に、萩の地蔵堂で拝見した、渡辺文三郎原画の石版画「白虎隊自刃図」について飯沼さんの最新の研究成果を教えて頂いた。
有難うございます。
その後は石田明夫さんと落ち合って、鶴ヶ城内を案内頂いた。
もちろん鶴ヶ城だけではないが、なにしろ発掘した当事者だけに城に詳しい。説明を聞いておかげで今までの疑問が氷解したことが多い。
城内を歩き教えていただいたのは以下の通り。
西出丸(漆蔵)→ 知期理坂 → 帯廓(番所、雑蔵 兵器蔵・・・・) →番所の礎石 → 太鼓門→ 遊女石 → 武者走 → 稲荷神社 → 金蔵 → 裏門 → 本丸(長局、御三階、御文庫、小書院など)→ 茶室 → 月見櫓 → 茶壷櫓 → 加藤の石垣 → 廊下橋を望む → 大広間 → 内讃岐門
昔の測量の方法、石垣の種類、彼岸獅子の入城者、籠城者数、容保の居場所、会津藩の借金の方法、石高、戊辰戦争後の城と土地の購入者と資金提供者などなど、様々なことを教えていただきました。
有難うございます。
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