昨日、黒谷山内 紫雲石 西雲院において京都会津会主催の法要があり、参列させていただいた。
松平容保が京都守護職として滞在した文久2年から慶応3年まで京畿で亡くなった藩士と、慶応4年の鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士の慰霊祭。
今年で106回目の法要となる。
京都会津会の総会もセットされているため、時間は若干前後するが、昨年と同じく、
受付10:00~
総会10:40~11:10
法要11:30~12:40
直会12:40~15:00
で滞りなく行われた。
参加者はおおよそ50人ほどで時節柄会津からの参加が昨年よりも少ない法要ではあったが、会津松平家十四代当主、会津若松市長、会津弔霊義会理事長等をお迎えし盛大に執り行われた。
会津墓地にて
法要での京都会津会会長、直会での松平家当主、会津若松市長など挨拶に立った方はいずれも東日本大震災について触れ、亡くなられた方々に哀悼の意を表し被災に逢われた方々へのお見舞いの気持ちを述べられた。
中でも、当事者である会津若松市長の話は、被害者の受け入れ支援の活動、放射線の風評被害など東北・福島・会津若松の置かれた生々しい状況について、居合わせた皆に直接響き認識を新たにしたのではないかと思われる。
会津若松市長
法要では、体調の思わしくない住職に代わり、白虎隊の会の会員でもある副住職が昨年と同じく導師を勤められた。
法要の最後の講話の中で、最近入手された容保の書を披露された。
容保がこの和歌を作ったのは会津藩士の穂積朝春(一ノ瀬勘助 青龍隊)から白虎隊自刃の絵を献上され、それを見て詠んだとされている。
飯沼貞吉のお孫さん飯沼一元氏によれば、穂積朝春は、東京護送前に猪苗代で3ヶ月間謹慎中している間に、同じ謹慎所にいた貞吉から自刃の状況を聞き、東京に移って謹慎中の明治2年に、自刃の状況を聞いた通りに描いた。
穂積には幾つかの違う構図・バージョンの絵があるが、その一幅を紀州藩中屋敷で謹慎中の容保に献上する。
容保は、
詞書に「たたかひ今を限りとや思ひけん十あまり五たりの男の子ども飯盛山にて腹きりて死したりけるをうつし画にせしを見てあはれさのあまりに」と書き、
千代までとそだてし親のこころさへ推しはかられてぬるる袖かな 」と、詠んでいる。
飯盛山の「白虎隊殉難詩碑」は、容保の侍医馬島瑞園が漢詩を作ることを命じられ、瑞園の孫・馬島彰により大正3年に飯盛山の自刃の地への途中に建立されたが、題字に容保の「白虎隊殉難時」が掲げられている。
題字部分の拡大 (向陽処HPより拝借)
披露された「白虎隊殉難詩」は、「白虎隊殉難詩碑」の題字部分に書かれているのものと書体・和歌・詞が同一である。どちらが先に出来たのかなども含め、これから真贋判定がされると思われるが、本物とすれば素晴らしい発見になる。
直会では、多くの方とお会いした。
昨年の法要から1年振りの方もおられるし初めてお会いする方も意外と多い。
現会津松平家当主とは実は初めてお会いしたが、その折、久能山東照宮宮司時代の容保の次男健雄と妻すえの珍しい写真をお見せし、遠い縁戚になることをお知らせしておいた。
直会会場にある、健雄とすえの次男松平勇雄の書
また、奇遇にも会津藩士手代木直右衛門・佐々木只三郎の末裔の方とお会いした。
見廻組の佐々木只三郎は公務として召し捕りに行った際に龍馬を殺害したといわれているが、その発端となった原因の一つが慶応2年1月23日の伏見寺田屋での幕吏殺傷といわれている。
とすれば、その寺田屋で龍馬と共に幕吏と戦いおそらく何人かは殺傷したであろう三吉慎蔵も、その意味では、見廻組からみれば同じ殺人犯でありお尋ね者であったに違いない。
140数年前、当時敵同士であった只三郎と慎蔵の末裔同士が、会津藩殉難者慰霊祭で親しく話し合うのも、なかなか面白い取り合わせであった。
なお、今回の直会は、参加費は昨年と同じだが食事は質素なものに変更された。差額は被災地への義損金となる。この方法は、いくつか所属している会でも推奨してみたい。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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