宝塚での再会

昨日、懐かしい人、ジョージ・林氏にお会いした。 ちょうど半年前、桑港で初めてお目にかかり、その縁で5/8の丸一日、桑港の咸臨丸関連史跡を案内頂いた。 リンカーン公園の咸臨丸入港百年記念碑の前で
画像
リンカーン公園の一角で
画像
金門橋の下にあるフォートポイント要塞にて
画像
桑港市内と金門橋を望む
画像
5/5 遣米使節150周年イベントとして北太平洋を航海した帆船海王丸が桑港に入港し、その晩の船長主催レセプションに桑港在住の日系人を始め、各界の人々が招かれた。 林氏は、海王丸の乗組員の中に、宝塚に住む小生がいることを新聞で知って、海王丸船上パーティの席で小生を待っておられた。 それは、氏にとって宝塚は生まれ育った懐かしい故郷の故であった。 日系2世の父君は、対日感情が悪化する中で祖父の生まれ故郷である兵庫県に戻ったが、その時、氏は1939年米国籍日系3世として兵庫県宝塚に生まれた。いつの日にか米国で生きていけるようにとの願いを込めて「譲治(ジョージ)」と名付けらる。 高校卒業後、1958年に単身渡米、苦学しアームストロング大学を卒業、64年に父君も勤務した定期航路を持つ船社APLリミテッド(アメリカン・プレジデント・ラインズ)に入社し、81年副社長、90年社長、96年会長に就任した。 98年退職し、同年大阪商船三井船舶の生田社長が役員待遇で招聘し、99年取締役副社長に就任する。 日系人として米国の定期船社に入社し、APL会長にまで上りつめ、米国流経営を実践してきた林氏は、企業文化の異なる商船三井で活躍し、海運業界に国際化をもたらした男として有名な方で、 99年船舶法改正を経て我が国船社初の外国人役員となり、当時一般マスコミを含め海運業界の話題をさらった。 それは、以下の理由による。 98年に商船三井が役員待遇で招聘したことが、明治32年に施行した船舶法を一世紀ぶりに改正する切っ掛けになった。 外国籍の者は代表権を持つ役員にはなれないが、役員定数の三分の一以内であれば取締役就任が認められるようになった。 船舶法改正は、政府の規制緩和計画でも古い規定を徹底的に見直す切っ掛けになっていくが、その大きなうねりを生み出したのが、ジョージ・林という一人の人物の存在だった。 船舶法改正で日本の海運業界は真の意味での国際化の糸口をつかむことになる。 氏と小生は不思議な縁で知己となったが、接点が幾つかある。 1.共に宝塚に地縁があること 2.氏の友人の日本郵船元副社長徳川恒孝氏は小生の遠い縁戚であること 3.咸臨丸・開陽丸に乗船し箱館五稜郭で降伏した小杉雅之進は後に明治政府に出仕するが、   退官した後、監督部長として入社したのが大阪商船であったこと、などなど。 林氏は商船三井を退職した後は桑港に在住し、年2回、春と秋に日本を訪れる。 次回は、来年、桑港か宝塚で会う約束をしてお別れした。 世界経済、為替、日米・日中関係、日米の政治の違いなど、いつも教えられることが多く実りある3時間だった。 ありがとうございます。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
幕末・明治時代(日本史)ランキング 絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です 励みになりますので、できれば以下のバナーもどうぞ にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村