岐阜高須桑名訪問 高須編

前日に標高300M強の金華山をケーブルで登り岐阜城から美濃平野を眺めたあと、 翌日いよいよ美濃高須巡りをした。
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廻ったコースは、高須館跡-->主水橋-->藩校日新堂跡-->高須天満宮-->海津市歴史民俗資料館-->行基寺(高須藩菩提寺) 高須は、東が長良川、西は揖保川に挟まれた低地で、土地はよく肥えているが、それは洪水がよく発生したことによる。時代により、川と川中の島(輪中)の形はは大きく変化してきた。     1750年、宝暦治水工事の直前 高須は上半分の中ほどの島(高須輪中)にある
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1887年(明治20年) 上半分に高須輪中とある
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現在、高須は上半分の島、川は西から揖保川長良川木曽川
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三河川のコントロールは難しいとはいえ、広い川をもつこの辺りは天然の要害にもなり、地政学上・戦略上、西日本に対しての重要な備えの場所でもあった。 元禄13年(1700)尾張藩主二代目松平光友の弟である義行は、元々信濃国伊那郡内三万石の領主であったが、山地で実収が少ないため半地の所領換えを望んだところ、期待に反し水害の多い高須を拝領した。已むを得ず高須を本貫としたが、内心はしまったと思った筈である。 高須松平家尾張徳川家支藩であるが家格が高く、尾張徳川家に3名の藩主を供給しており、明治4年廃藩置県まで14代にわたり170年間の治世が続いた。 高須城と城下町 北に御館が見えるが藩主は参勤交代も免除され江戸に居住した
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御館があった場所
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南方に見える高校辺りまで城郭を形成していたらしい
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御殿の間のイメージ(海津市歴史民俗資料館に復元されている)
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          高須城跡を見た後、海津市歴史民俗資料館を見学し、解説を拝聴しながら展示物を拝見した。 博物館は立派な建物で、内部には能舞台もある。建設費23億円とのこと
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最後に、高須松平家菩提寺である行基寺を回った。 寺は養老山地の中腹にあり、緊急時には高須藩の城としての機能をもっていた。そのためか、寺院というより城の御殿に近い。事実、大洪水のときは政務を行基寺に移している。 残念ながら工事中で、松平家墓所はお参り出来なかったが、この寺から見る濃尾平野は素晴らしい眺めだった。
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