岐阜高須桑名訪問 桑名編

桑名では、旧東海道沿いにある「歌行燈」で昼食を取った後、 本多忠勝像--> 桑名城跡--> 蟠龍櫓--> 七里の渡し跡を回った。 城跡公園内の桑名青年会議所創立20周年記念碑
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                     桑名では是非見学したいと思っていたのが、蟠龍櫓と七里の渡し跡。 慶長6年(1601)に江戸と京都を結ぶ大動脈の東海道が定められ、熱田の宮宿と桑名宿との間は海路七里の渡船と決められた。宮の渡しから海路七里のため、桑名の渡しは「七里の渡」と呼ばれ、古来、旅人が行き交い、幕末の頃は多くの志士達が通った。 また、この渡し場より伊勢路に入るため、天明年間(1781~1789)に「伊勢国一の鳥居」と称された大鳥居が建てられ、伊勢神宮遷宮ごとに建て替えられている。 七里の渡しから降り、大鳥居を潜ると東海道(伊勢路
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そして、かって東海道を行き交う旅人が必ず目にしたのが、七里の渡しに面して建てられた桑名城の蟠龍櫓。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」には、この蟠龍櫓が描かれている。 江戸末期三代広重の「東海道名所改正道中記」に描かれた蟠龍櫓と七里の渡し (蟠龍櫓復元の参考にされた浮世絵)
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復元された蟠龍櫓と七里の渡し跡
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蟠龍は天に昇る前のうずくまった状態の龍のことをいい、水を司る聖獣である龍が、航海の守護神として櫓の瓦に据えられていた。      
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櫓の屋根にある蟠龍、無事の航海を見守る
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「蟠龍」については、歴史上色々と出てくるが、幕末時はこの名を命名された幕府軍艦があった。
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安政5年(1858)英ビクトリア女王から徳川将軍へ贈られた寄贈船で、後に、慶応4年(1868)開陽が江差で沈没した後は、榎本武揚率いる旧幕府艦隊の主力艦として箱館戦争で活躍する。 咸臨丸と兄弟船になる新政府軍艦「朝陽」を撃沈する武勲をあげるが、被弾が多く、砲弾が尽きた後は海岸に乗り上げ、松岡磐吉艦長以下乗組員は退艦し、新政府軍によって捕獲される。 小杉雅之進描く、朝陽を打ち沈める之図
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今回の歴史探訪ツアーは、全面的に名古屋の友人が企画し車で皆を案内をして頂きました。また急遽大阪から車での参加をお願いした方もありました。有難うございます。誠に有意義な二日間を過ごさせて頂き、参加された皆さんに改めてお礼を申し上げます。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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