西の光村弥兵衛、東の岩崎弥太郎

昨年末、明治時代の大阪商船に在職したある人物の調査を商船三井にお願いしたところ、「創業百年史」(1985年発行)を送って来られた。この社史により人物調査は終わっていたのだが、最近別件の調査のため読み直してみた。 社史は900頁弱の大冊で、300頁ほどの資料集も付いている。該社は海運国日本の近代化に直接携わってきただけあって、内容はなかなか濃い。 第一章「海運業の揺籃期」では、幕末の開国前後から日清・日露戦争までの日本・東洋を取り巻く海運の環境と、日本海運の草創期を描いている。 大阪商船と三井船舶(三井物産船舶部が前身)は、その記述が現れるのは、前者は明治14年大阪汽船取扱会社設立から、後者は明治2年東京貿易商社設立の布告からである。 大阪商船の開業は明治17年(1884)5月1日であるが、大阪汽船取扱い会社設立の明治14年からの3年間は創立事務の期間である。船会社にとって重要なのは人以外にはまず船であり、船舶の評価が事務作業の重要部分を占める。船は株主となる船主の持ち船で構成するが、新規造船ではなく中古の船舶ばかりでもあり資産価値の評価は経営上重要で、今後の決算を左右もする。同年4月には第1回船舶検査が完了し開業時の5月1日に93隻の船舶を購入している。 社史では、残念ながら大阪商船についてはその設立から記述が始まり、設立以前の沿革は殆ど触れられていない。ただ、開業時に所有していた船舶の中に、偕行会社社長河原信可の持ち船8隻が含まれており、そこから推断することは可能なようだ。 河原は明治17年末(当時の決算は12月末)時点で大阪商船の株数1,308の筆頭株主で、明治21年には第2代社長になる人物。 因みに,偕行社は明治3年(1870)に岡山池田家中の藩士安井改造が提唱し岡山に設立された蒸気船航行会社で,この頃には大小20隻以上の蒸気船を保有し中々有力な汽船会社になっている。明治13年(1880)には神戸偕行社(岡山に誕生した偕行社が神戸に移転)は、神戸~多度津三津浜~別府~八幡浜を結ぶ郵便路線が開設され,郵便物をこのルートで配送することになる。 この神戸偕行社が保有している8隻の中に、一時は西の光村弥兵衛、東の岩崎弥太郎と並び称せられた光村弥兵衛が過って所有していた船が何隻かある。 中でも有名なのは運貨丸。236トンの木造の外車船、この時代にはスクリュー船が主流のため、明治19年下期には解体される運命にある。 この運貨丸は、弥兵衛が同郷の造幣頭井上馨より造幣寮所有の汽船運貨丸の運用を委託され,大阪~神戸の航路を運航し、明治5年(1872)に払下げを受けた船。 同年6月に明治天皇が造幣寮に行幸した際には、この運貨丸が天皇の乗船に利用される。 弥兵衛と運貨丸との関係について、「神戸市史」では光村弥兵衛についての記述はあるが、運貨丸にはふれていない。また「大阪市史」では運貨丸の記述はあるが弥兵衛についての記述はない。共に何か片手落ちのような気がする。 弥兵衛は神戸港を中心に、内海航路で着実に実力を備えていく。 外国商社から外輪船内灘丸など所有船6隻を持って,大阪・神戸~高松・鞆・下関・博多・長崎を結ぶ月3回往復の定期航路を開設するようになる。 明治10年西南戦争が勃発し、神戸が兵站供給基地となる。 新型船の三菱に比べ、弥兵衛のは外輪船など旧式の船が多かったが、政府徴用船となって航海ごとに膨大な輸送料が舞い込む。 「弥兵衛の栄町の邸宅は官軍の事実上の総指揮官である参軍陸軍中将山県有朋、陸軍少将鳥尾小弥太、海軍中将川村純義、参議木戸孝允伊藤博文井上馨らの旅館となった。乱のおさまった後、大蔵省から金1万円を下賜された」 (光村利藻伝)という。 ただ、三菱の最新船に対し、外輪船の不利は明確で、弥兵衛は自らそれを自覚し、翌年白内障を患ったこともあり、明治13年には一切の事業から手を引く。 運貨丸の所属移転からみると、この時に持ち船すべては、後に第2代大阪商船社長となる河原信可の偕行社に譲渡されたのではないだろうか。 その意味では、大阪商船の沿革を遡及すれば、西の海運王と称せられた弥兵衛に行きつくことになる。 大阪商船の沿革は、是非、今では忘れられた光村弥兵衛から初めて欲しいものだ。 光村弥兵衛は、1827-1891幕末-明治時代の実業家。 文政10年、周防(すおう)(山口県)生まれ。本姓は水木。 横浜で外国船員相手に小商いをはじめ,慶応3年開港直前の神戸に移転。同郷の伊藤博文,井上馨の引き立てで官営事業を請負い、明治2年廻船問屋長門屋を設立し,西日本の海運業界を支配する。明治24年2月20日死去。65歳。墓は、神戸市兵庫区臨済宗祥福寺。 祥福寺
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墓地ではひときわ大きな墓石
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湊川神社宝物殿前にある大きな献燈、一対の片方は阪神大震災でこわれてしまった
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弥兵衛には、一粒種利藻がいる。(以下は神戸史談会「歴史と神戸」による) 百万長者長門屋を継ぎ、慶応義塾を出たが、日本最後の遊蕩児として名高い。 逸話の多い人物だが、弥兵衛の葬儀を撮影した写真に興味を覚えて、風景や人物を芸術的に撮影し美術印刷の道を開いた先駆者となり、乃木将軍の「水師営の会見」写真で知られる。
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