久し振りに湊川神社を訪ねてきた。
神社の神域には墓所と殉節地があり、様々な碑と献燈がある。
楠木正成(大楠公)の墓所には水戸光圀が建てた墓碑がある。
大楠公墓所(嗚呼忠臣楠子之墓)
光圀の筆になる「嗚呼忠臣楠子之墓」
墓所正面
この墓碑の建立により正成の盛徳が大いに顕彰され、勤皇思想の発展を助け明治維新への力強い精神的支えとなる。幕末から明治にかけて、頼山陽、吉田松陰、真木和泉、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など多くの志士がお参りし、墓前にぬかづいて報国の至誠を誓った。
中には坂本龍馬のように有名な歌を残した者もいる。
湊川にて
月と日のむかしをしのぶみなと川 流れて清き菊の下水
盟友の三吉慎蔵が墓所に詣でたという話は聞かないが、墓所に絡んだ話は幾つかある。
神社には慎蔵ゆかりの人物の碑が静かに立っている。
明治23年1月31日、60歳の慎蔵は13年間勤めた宮内省御用掛と北白川宮家令の辞職願を宮内大臣土方久元に提出する。
29日からの一時的な体調不良のため、孝明天皇御例祭にも参列せず宮内省にも参省しておらず、2日ぶりに参省して辞職願を提出したが、その時、28日に皇女が御降誕していたことを知る。
宮内大臣よりそのお祝いのため参賀の達しがあるが、不調のため不参と答えている。
御降誕した明治天皇の第7皇女の御名は房子。幼称は周宮(かねのみや)。
この皇女がのちに、慎蔵が家令として仕えていた北白川宮能久親王の、第3王子成久王と結婚するとはこの時思ってもいなかったはず。
その北白川宮房子は生涯に多くの歌を残すが、戦後、皇籍を離れ北白川房子として神宮祭主となっていた時に詠んだ歌が、湊川神社の表神門を潜って直ぐ右側に建っている碑に刻まれている。
碑の建立は昭和28年11月で、碑の撰文は91歳の徳富蘇峰による。
徳富蘇峰は他にも、大楠公墓所の傍らにある光圀の立像の隣の頌徳碑に、蘇峰92歳の時、撰文を書いている。
水戸光圀公頌徳碑
歴史に詳しい蘇峰は、碑の撰文以外に一次史料に由緒書など説明を付すことがよくある。
そのひとつに、仙台市博物館が所蔵している慎蔵宛ての龍馬の書簡がある。
慎蔵宛ての書簡として現存するものでは一番古く、書簡はきれいに表装してある。
展示をみて初めて知ったが、この書簡に蘇峰は前書きをしている。
蘇峰と慎蔵とは面識はない思うが、前書きには、寺田屋事件から書き起こし慎蔵と長男米熊の簡単な事跡を述べる。米熊が亡くなった年の昭和2年、蘇峰65歳の時だった。
また、大楠公の墓碑を書いた光圀に関連するものとしては、
慶応3年、龍馬が下関伊藤家に滞在していた頃、光圀の編纂した「大日本史」を借用したい、と慎蔵に宛てた龍馬の書簡がある。但しこの書簡は現在は写しが残ってるだけで、現物は行方不明だが・・・・
殉節地は、長方形の神社神域のなかで、ちょうど墓所とは対角の端にある。
社務所に見学希望の旨を伝え、北西に位置する殉節地を案内して頂いた。
本殿の左側に赤絨毯が敷かれ、それを辿ると正成殉節地の入り口に至る。
殉節地は厳かで、入り口とその周辺には明治政府要人などが寄進した燈篭が並んでいる。
奥の小高い場所が正成、弟正季ら一族が殉節した場所。過って松が植わっていたが空襲にあい、拝殿と共に焼失した。 その場所は何故か何度撮ってもはっきりと写真に写らない
柵の手前は住友家よりの金属製の献燈で、戦中の供出を免れた。理由はわからないが戦後に発見されたという
江藤新平の明治6年の献燈、翌年新平は佐賀の乱で処刑される
大木喬任の明治10年の献燈
大隈重信の明治6年の献燈
伊藤博文の明治2年の献燈、兵庫県知事として湊川神社の創建に尽力する
住友家のもうひとつの献燈、銅製の献燈は戦時中供出したため台座のみ
当日は暑い夏の日だったが、殉節地は木陰もあり涼しい。ただ、季節がら蚊が多くあまり長くはいられない場所なのだが、案内頂いた方は厭な顔もせず、詳しくひとつひとつ丁寧に説明をしていただいた。有難うございます。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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