地震学者 今村明恒

9/1の防災の日関東大震災が起きた日)にちなみ、前回のNHK歴史秘話ヒストリアは、関東大震災を予知した地震学者今村明恒を取り上げた。時宜を得た番組内容だと思う。
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今村は科学の力で自然災害に立ち向かっていった地震学のパイオニアとして知られる。 その研究と行った活動は、地震津波の現地調査、津波の理論的解明、過去の文献調査による地震の予知(関東大震災、南海大震災など)、防災教育とその普及活動、南海地域各地の地動観測所の自費建設など、多岐にわたる。 日本の近代地震学の基礎を確立したばかりではなく、国民の生命と財産を守る立場から地震学を実際の国民生活と結びつけ、震災予防についての対策と国民知識の普及と向上、地震予知研究のために、生涯をささげた国民的な科学者であった。 特に今村を有名にしたのは関東大震災の予告。 1905年(明治38年)、東京帝国大学理学部助教授の時、「50年以内に東京で大地震が起こりうる」と説き、震災被害軽減の対策として特に火事による惨禍に警告を発し防災の重要性を訴える(雑誌「太陽」九月号に掲載)。 1906年(明治39年)1月16日、「東京二六新聞」が今村論文を「今村博士の説き出せる大地震襲来説 東京市大罹災の予言」の見出しで、防災についてはカットし、センセーショナルに報道する。 直ちに今村は同新聞に抗議文を送り、抗議文は同新聞の1月19日に掲載されたが、21日に東京で小さな地震が起ったことなどもあり、世上ではその後も地震発生の必然だけが取り上げられ大騒動が続く。 これに対し、国家・社会に責任を持つと自負していた上司の大森房吉教授が、同年1906年「太陽」三月号に「東京と大地震の浮説」を発表し、今村説を世の中を動揺させる「浮説」だと否定する。 もちろん今村は納得しなかったが、当時地震学会の最高権威と見なされていた大森博士の主張とあって、一応地震騒動は終結し人心は治まった。 しかし大森教授の言は、肝心の地震対策の切迫感を薄れさせ、結果として関東大震災の被害を甚大にしてしまう事につながる。 当時の日本の本格的な地震研究は、 1880年(明治13年)日本地震学創立に始まる。 1892年には文部省直轄の「震災予防調査会」が設立され、 1893年に東京帝大理科大学物理学科に地震学講座が開設される。 今村は、日本の地震学の揺籃期の1891年に東京帝大理科大学物理学科に入学した。
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1895年には理科大学副手に、1901年に助教授に任命されるが、1923年教授になるまで28年間大学は無給で、助教授になった以後は文部省から年末にわずかだが賞与が支給されるだけであった。
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その代わり、1896年より陸軍教授に任ぜられ、陸軍中央幼年学校(後の陸士予科)付(数学の教官)を命じられて俸給を得た。1923年理学部教授になった同日に免官になる。 関東大震災を契機に2年後の1925年(大正14年)に東京大学地震研究所が設立される。 今村は研究所創生期のメンバーであり、地震学の基礎の構築に貢献し、また防災を訴え続けた。 最新の技術で地震の前兆を捉えようと試み、地震予知の原点となる研究をした。 今の地震予知でも基本的な考え方は今村の考えたものをそのまま使っている。 今村の研究でも重要なのは、初期の1899年(明治32年)に津波の原因について論じ発表した、海底地震に伴って起こる津波は広範囲に亘る海底の地殻変動によって発生するとの見解ではないだろうか(この説は直ぐに上司の大森博士により批判される)。今ではこの「海底地殻変動説」は学会では定着し一般人の常識にまでなっている。 今村は防災教育にも心を尽す。
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関東大震災後、震災を予知した地震学者として時の人となり講演依頼が多数舞い込むが、それを利用し各地で震災に対応するための防災講演を行う。 子供の教育も重視し、国定教科書に採用させたのが「稲むらの火」。実在のヤマサ醤油の創業者である濱口梧陵が主人公で、濱口の機転と犠牲の精神を中心にし、子供が分かり易く防災を学ぶ内容となっている。 地震発生のあと海を見ると、潮が急激に引いていくのを見て大きな津波が来ると予測し、村祭りの準備に没頭している村人達に知らせるため自分の稲むらに火をつけ、高台に避難させたという筋書き。 実際は、湯浅村にいた濱口は地震による激しい揺れから大津波を予感し、即座に村民たちに高台の神社への避難を呼びかける。その時、道筋を照らす明りとして自分の田んぼの稲わらを大量に避難路沿いに並べて火をつけ、迅速な避難ができたことにより多くの村民を救い、この結果、村の流出家屋125棟・半壊家屋52棟という被害の割りには人的被害は30人と少なかった。この話が脚色され「稲わらの火」となる。 今村明恒は、1870年(明治3年)、薩摩藩士今村明清(1834~1921)とキヨ(藩士大河平源左右衛門三女)の三男に生まれる。 故郷の真ん中にいつもそびえる桜島を毎日見ながら、郷中の教え、負けるな、ウソを言うな、弱い者をいじめるな、の3つの教えの中で育った。 長兄明文は、父が金禄公債を他人に詐取され没落した生活難の中で、明恒が中学卒業後、一高から東京帝大に進むまで学資を援助したが、入学1年後の1892年に敗血症で亡くなる。 その後、次兄の明佐が鹿児島の実家を継ぐ。 1897年(明治30年)今村明恒は、元薩摩藩士上村慶介の次女義子と結婚する。 この頃は、鹿児島の両親への仕送りと担保に入っていた鹿児島の家の借金利息の支払い、弟明孝、明光、明徳ら舎弟への教育援助など、生活は苦しく、月給65円で遣り繰りし、家庭教師・数学教科書のアルバイトなどで家計の足しにしていた。 今村の生涯は貧乏との戦いであったといっても良い。 その中で、五男六女の多くの子供に恵まれた(ただし、長女静子、次男勝、次女百合子は早世)。
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写真は、1936年(昭和11年)新春、煙霞荘(自宅)で、今村夫妻(前列)と子供一同 後列左から、四男正治(妻、間野英子)、五女仲子(川崎憲治に嫁す)、三女紀子(山本利三郎に嫁す)、長男文雄(妻、米原不二子)、三男久(妻、嵯峨根静子)、四女節子(川瀬二郎に嫁す)、六女蕗子(近藤實に嫁す)、五男昇(妻、山崎春子)。 子供たちが皆片付いたのは、22歳の末娘蕗子が結婚した1944年、明恒74歳のときである。 この中で、写真右端の五男昇の妻春子は山崎家から嫁してきたが、幕臣彰義隊に参加し上野戦争で戦死した小生の高祖父河島由路の系統になる。春子は、由路の次女駒(山崎家に嫁す)の孫に当たる。 今村明恒は、父明清から聞かされていた先祖の調査を、1917年(大正6年)から始める。 祖父明麗、曾祖父真胤(長崎の通詞)のそれ以前は分かっていなかった。 そこで妻義子の兄が高崎家を継ぎ、長崎市長であることを幸に、長崎今村家の子孫調査、今村家の墓の探索を行い、大音寺に墓碑を発見する。その碑文の中に、明恒から遡って五世の祖である明生らに関する事跡を見出す。 さらに、碑文を頼りに明生の父、六世の祖に当たる英生(ひでしげ)こそ、新井白石の「西洋紀聞」に出てくる、有名な今村源右衛門英成であることを突き止める。 明恒はさらに長崎今村家の系図もみつけ、自家に伝わる系図と合せて体系化し、「出島蘭館日誌」にて今村家の事跡を調査し、1943年に「蘭学の祖今村英生」として出版する。 このとき、「出島蘭館日誌」を読むためにオランダ語を独学にてマスターしている。 今村明恒が地震学者として生涯を全うしたのは、彼の負けず嫌いの性格と無類の粘り強さ、妻義子の献身的な協力などに加え、学者として先祖に恥じぬ生き方をしようと、それを手本にしたからであった。 参考:NHK歴史秘話ヒストリア     山下文雄「地震予知の先駆者 今村明恒の生涯」 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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