昭和34年から随時発刊されてきた鹿児島県史料を読むと面白いことが書いてある。
昭和59年発刊の「旧雑録後編5 斉宣・斉興公史料」の解題に、
明治5年、大山格之助が鹿児島県令の時に、県庁に保存されている薩摩藩時代の公文書を「旧弊を打破する」との理由で焼却してしまったために薩摩藩の歴史研究に大きな弊害を与えた、とある。
その格之助が三吉慎蔵に送った書簡が、「忠義公史料 第七巻」の明治4年の項に収められている。
「191 大山格之助贈三好慎蔵書」
「昨朝ハ御見廻被下、始テ得拝顔候得共、草卒ニテ遺憾
不少候、扨近頃恐入候得共、此者宰府迄急要ニ付、差
返申候間、何卒新御領内御遁シ方可然奉願候、左候テ
重畳御面倒願上兼候得共、不日肥後此古閑富次ト申仁
ヨリ尊兄迄相願、小生へ一封可差出候間、速ニ此方へ
相届候様御取計被下度、此段モ分テ奉希候、拝顔草々
可奉謝候、頓首、
九月十一日 薩州
大山格之助
京町廣島屋
三好新蔵殿」
この書簡から様々なことを想像してしまった。
薬丸示顕流の使い手で藩内随一と言われた格之助は、文久2年(1862年)の寺田屋事件の際、奈良原喜八郎らと過激派藩士の説得に出向き、中心的役割を果たす。特に寺田屋2階にいた大山巌・西郷従道・三島通庸らに対し、格之助は刀を捨てて必死の説得を行い、投降させることに成功した。
また、長府藩随一の槍の達人と言われた慎蔵も、慶応2年(1866)に龍馬とともに、この同じ寺田屋で幕吏に襲われる。
格之助と慎蔵が初めて会ったこの時に、お互いの寺田屋での事件の話をしただろうか?
「草卒にて」とあるからその余裕はなかっただろう。
藩内随一の剣の使い手と、同じく藩内随一の槍の使い手は、武術について話がなかったのだろうか?
その余裕はなかったようだ。
ところで、この書簡の内容は、昨日の朝慎蔵が格之助に会いに来たが、格之助は今日になって太宰府に行く急用が出来したので、新領地を通りたいとの願いが一つ目の趣旨。
この書簡によれば、通りたい場所は「新」領内、慎蔵は「京町廣島屋」に居る。
この書簡を読むと分からないことがある。
書簡の日付の明治4年9月11日は、翌12日に長府毛利元敏が藩知事を免ぜられて華族として東京詰を命じられて出発する、つまり慎蔵が元敏に家扶として随従し上京するその前日に当たる。
これはこの年の7月4日に廃藩置県が断行されたからだが、藩が消滅しても、長府の地を通るのに許可がいるだろうか?
また、「京町」の地名は、長府博物館に確認すると、長府・下関にはない。
「新」領地と「京町」、領内を通るのに許可を求めることから、この書簡は、時代が異なることがわかる。
慶応2年に第二次征長が始まると、慎蔵は報国隊五番大隊軍監兼応接方並びに六番遊撃大隊軍監として、四境戦争のなかで最も戦闘が激しかった小倉口で戦う。
小倉口戦争要図 「長府藩報国隊史」より
報国隊顕彰碑小倉城が落城した後、慎蔵は民事取締として萩藩湯川平馬と共に小倉城に駐留し人心の安定を図った。そのときが、慶応2年8月29日から11月までの間。
しかも小倉には「京町」もある。
従って、鹿児島県史料に収集されているこの大山格之助の書簡は、慶応2年9月11日の日付とみることができる。
なぜ明治4年と判定されたのかはよくわからない。
いずれにしろ、県庁にあった薩摩藩の公文書を格之助が焼却した事などもあり、膨大な鹿児島県史料の中に収められている日付のない史料群は、内容も整理の仕方も、まだ見直し検討の余地があることが考えられる。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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