10/10体育の日に、久しぶりに京都東福寺を訪ねた。
前日の講演会「幕末歴史秘話 長州編」の内容確認のためでもある。
東福寺の南岳に霊明神社が神葬祭を行った墓地がある。
また、たまたまこの日は、最後の攘夷志士といわれ霊明神社に実葬された朱雀操と戦った中井弘の命日でもあり、東福寺即宗院に立派な墓もある。
即宗院
お寺に行く前に、円山公園にある中井弘の銅像をまず拝見した。
中井は第5代京都府知事の在職中の明治27年(1894)に病で亡くなり、終焉の地に中井弘の三男松太郎の娘きせと弘子が昭和39年に建て直した。戦前にはもっと大きな胸像があったが戦争で取り壊されている。ただ、昭和42年と刻まれた簡単な事績文を読むと、「18歳で上洛」、「安政2年英国から帰朝」など幾つかの間違いがあることに気付く。正しくは「26歳で上洛」、「慶応3年英国から帰朝」。
中井の滋賀県知事時代の部下を務めた片岡直温の略年譜でも、これも史実とは違うが帰朝は安政6年なので、当時よく使われていた片岡の略年譜でなければ、何の資料に基づいているのだろうか?
今では御子孫の屋敷茂雄氏の著作「中井桜洲」が、飛躍の箇所に目をつぶれば、当該事績については正確なはずで、事績文の修正はなかなか難しいだろうが直してほしいものだ。
東福寺は、明治に入って規模が縮小されたとはいえ、旧伏見街道沿いにある、25か寺の塔頭を有する大寺院。
書院方丈の横奥にある即宗院への案内に従って進み、
桃山時代の架橋とされる偃月橋を渡る。
即宗院の門には、薩摩藩島津家の家紋の幕がかけられていた。
先ず、京都清水寺の僧月照が西郷隆盛と井伊直弼打倒の為に密議を行ったとされる採薪亭の跡をみて、裏山の坂を上り、戊辰戦争で亡くなった524名の招魂碑である薩摩藩士東征戦亡之碑に参る。
ここは何時みてもこきれいに清掃されている。
次に、山を下り中井弘の墓に詣でた。墓は、命日だが何故かお供え花もなく誰も参っていないかのように寂しい。
墓の斜め前には、仲の良かった土居通夫の存在感のある大きな献燈がある。
即宗院をでて、国宝の三門に至る。
門の東側には、山県有朋篆額、三浦梧楼譔、野村素介書による防長忠魂碑が建っている。戊辰戦争50回忌にあたる大正6年(1917)に建立された。裏には伏見・淀・鳥羽で戦死・病死した48名の名前が刻んである。
霊明神社の村上神主一家は、禁門の変後、4年間離散隠伏の逃亡生活を送り、大政奉還と王政復古令の後に霊明神社に戻り、葬祭・招魂祭を再開する。
慶応4年正月3日に始まった伏見・淀・鳥羽の戦いで戦死・病死した長州藩兵48名は東福寺南岳に埋葬され、霊明神社神主村上都平、村上都順が神葬祭を行っている。
入り口を上ると、一番奥の宮内庁管理の仲恭天皇九条陵の一段すぐ下の広場に、48名の墓が整然と立ち並んでいる。
御陵はさすがにきれいに掃除も行き届いているが、長州藩の神道墓地は草が生え、最近の台風のためか、折れた小枝が散乱している状態で、つい同じ墓域にある御陵や、薩摩藩士東征戦亡之碑と比較してしまう。
10/23に明治維新防長殉難者顕彰会が開催されるので、その時までにはきれいになっているとは思うが・・・
帰りがけに、明治維新防長殉難者顕彰会による法要が執り行われる退耕院に寄り、東福寺を後にした。
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