幕末殉難志士を弔祭した霊明神社

10/9、京都府庁旧本館で開催された連続講座「幕末歴史秘話 長州編」を拝聴した。 講師は洛東霊山 志の聖地 霊明神社 八世神主 村上繁樹氏。会場はほぼ満席だった。 霊山はいわずと知れた幕末志士の聖地だが、なぜここに志士達の眠る墓があるのか、最近になって真実を知る人はだんだんと増えてきた。  志士達の墓碑がある場所は、今は霊山護国神社になってはいるが、幕末維新当時は霊明神社の境内墓地だった。 霊明神社の初代村上都愷(くにやす)の一族が代々さまざまな困難を乗り越え祭祀を続け今日に至っている。
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霊明神社には今でも公表していない(解読できていない)書簡・遺墨など幕末の史料が数多くある。 今回の講演では、解読された史料を何点か披露された。   船越清蔵の詩歌
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  吉村虎太郎の書簡
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  久坂玄瑞の書簡
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村上神主から霊明神社と志士達が眠る霊山墓地との関係を拝聴するのは3回目になるが、毎回充実していく。 幕末に活躍した志士達にまつわる関係資料の今後の公表・公開に注目したい。 霊明神社は、文化6年(1809)に霊明舎として創建され、神道による葬式(神道葬)を始める。 文久2年(1862)には日本初の私祭による招魂祭を行う。 この意味で、慶応4年から霊明神社の墓地に霊明神社とは別に建てられた各藩の招魂社や、後の創建される東京招魂社、靖国神社は霊明神社が源流と言ってもよい。 霊山は幕末期に、主に長州系志士達の葬送・祭祀の地となるが、藩の枠を超えて、暗殺・戦死など殉難・変死した志士達も葬っていく。
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中でも有名なのは慶応3年の坂本龍馬中岡慎太郎、藤吉の埋葬。暗殺の後、霊明神社が神葬祭(実葬)を行った。 墓碑銘は桂小五郎が涙ながらに筆をとったという。 当時の資料では、通説とは異なり藤吉は闘って亡くなったことになる。
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また、翌慶応4年2月に英公使パークスを襲撃した最後の攘夷志士朱雀操と三枝蓊の実葬も霊明神社で行っている。明治21年には朱雀操の刀剣が霊明神社に献納されているらしい。是非拝見したいものだ。 余談だが、この時攘夷志士と戦った中井弘の命日は講演の翌10月10日。 村上神主の講演は、おおむね以下の通りで、史料をふんだんに使い分かり易く工夫されていた。 ①霊明舎・霊明神社の起こり ・神事祭祀などを再興し天皇や朝廷の権威の強化を図った光格天皇と初代村上都豈の関係 ②霊明神社に祀る尊攘志士 ・文久2年(1862)11月、陽明学者 船越清蔵守愚(長州清末藩)を埋葬する。霊山に維新殉難志士を祀る始まりであり、以後長州藩との関わりが深くなる。 ・文久2年(1862)12月、日本最初の私祭による招魂祭として、安政の大獄以降の国事殉難者を祀る「報国忠死の霊魂祭」を執り行う。尊王派の志士達の象徴的な聖地として霊山霊明舎が看做され始める。 ・坂本龍馬中岡慎太郎神道葬祭を執り行う ③神道葬祭場から招魂の社へ、「神武創業に基づく、王政復古、祭政一致」=神道を国教、神仏分離令 ・慶応4年5月 太政官布告。 ・慶応4年正月 長州藩招魂社建立(土佐、鳥取熊本藩など諸藩招魂社の初め)、諸藩の招魂社は霊明神社の末社(後に兼帯社)として建立さる、「霊山官祭招魂社」が霊明神社境内に創立される。維新の功臣549柱。    ・明治8年 霊明神社兼帯社の各藩の神霊が東京招魂社に合祀される。 ・明治9年 志士顕彰団体「養正社」が創立される。 ・明治10年 霊明神社の上知(知行地の取り上げ)1880坪余りが事実上没収される。碑は官修墳墓となり、官費による営繕、祭祀となる。大政奉還記念の10月14日、15日に招魂祭を斎行する。 ・明治12年 霊山招魂社に幕末の志士1,356柱が合祀される。 村上神主には講演の始まる前に、常々気になっていたことだが、霊明神社で初めて祀る志士となった船越清蔵の系図と三吉慎蔵の系図をお見せして、跡取りだった清蔵は家を継がず、三吉慎蔵の養母の兄が船越家を継いだことをお知らせしておいた。 また、船越清蔵が亡くなったのは、山口美祢と大津の2説があるが、大津は滋賀の大津とされている説をよく見る。清蔵が京都に来たとき湖南大津の親族の家に滞在したことがあるので、滋賀大津説が生じたのではないだろうか。この場合の大津は、当時の長門国大津郡(今の長門市に入る)になる。 まことに貴重な講演を拝聴いたしました。ありがとうございます。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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