幕末維新殉難志士の慰霊祭

禁門の変の日の7月19日、京都洛東霊山の霊明神社にて、霊明神社奉賛会主催の「幕末維新殉難志士の慰霊祭」が行われた。
画像
画像
霊明神社は、幕末維新にかけ、主に長州系志士達の葬送・祭祀の地となるが、藩の枠を超えて、暗殺・戦死など殉難・変死した志士達も葬っていく。従って、霊山は、幕末維新の志士たちの聖地として知られる。 霊明神社の由緒略記によると、創建は、文化6年(1809)11月に遡る。 当時の光格天皇は神事祭祀などを再興し天皇や朝廷の権威の強化を図るが、その御代の文化6年8月、主殿寮史生従六位上・日向源朝臣村上都愷(くにやす)が、霊明神社(当時は霊明社)を創建する。創建場所として、正法寺塔頭清林庵所有の山林1,000坪を買い受けて開拓し、この地に嘉永年間に900坪を増地し、2,000坪ほどの境内を有するまでになる。 今現在、志士達の墓碑がある場所は霊山護国神社の管理になってはいるが、幕末明治は霊明神社の境内墓地だった。 この霊山に、霊明神社によって最初に祀られた志士は、長州清末藩出身の国学者・船越清蔵守愚(もりなお)。 清蔵は24歳にして郷里を離れ諸国を遍歴したのち、39歳から京都・大津にて塾を開き、密かに朝廷に出入りし尊攘を唱え王政復古にその全生涯をささげる。安政の大獄を避け郷里に30数年ぶりに帰るが、文久2年(1862)8月8日に藩内にて守旧派に殺されてしまう。 そしてその年の11月18日に、清蔵とも親しかった吉田玄蕃の祭主にて、長州萩藩主の使者と50人程の藩士の参列のもと、霊山墓地に遺物を納め、招魂祭が行われた。 そしてその翌12月には、安政の大獄で殉難した志士たちの慰霊祭が古川躬行の祭主により在京の尊攘志士66名の参列のもとで行われ、その後も幕末殉難志士たちが霊山に葬られていく。 文久2年から霊山で日本初の私祭による招魂祭が行われ始め、慶応4年から霊明神社の境内墓地に霊明神社の末社として各藩の招魂社が建てられていく。そして明治8年に霊明神社の殉難志士の神霊は「東京招魂社」に合祀される。従って、東京招魂社を引き継ぐ靖国神社は、霊明神社が源流と言ってもよいのだろう。 当日、祭典式は、午前10時から村上神主の祝詞奏上から始まり、木戸孝允の詩歌が詩吟奉納され、、最後に一人一人が玉串を奉納して、式は厳かに終わった。
画像
画像
詩吟奉納される山田則夫氏の挨拶
画像
そのあと、奉賛会長出羽修氏による講演会が行われた。
画像
また、参列された梅田昌彦氏より、今年は梅田雲浜生誕200年であり、これを記念し生誕地の福井県小浜市にて200年記念のイベントが行われるとの紹介があり、 竹本知行氏より、かって活発に行われていた防長史談会を新たに立ち上げたとの報告と参加呼びかけがあった。 総会・直会は午後11時半から15時までにぎやかに続いた。
画像
僕個人としては、国の為に殉難された方々の慰霊のためと、長府藩士三吉慎蔵の縁者である船越清蔵と来島又兵衛との慰霊のために参列させていただいたのだが、この場に来るといつも、新しい事実を発見できるのも楽しみにしている。 直会も終わりの頃、船越清蔵の年譜をもとに事績を紹介する機会があった。年譜作成にあたって、生まれ故郷の郷土史家・堀哲三郎氏の著作に勝るものはないので、ここから引用させていただいた。
画像
会場の周りには、様々な詩歌や絵、新聞記事などの展示があったが、船越清蔵の遺墨も掲げてあった。 ひらがなが混じった一幅は大変珍しいものになる。
画像
今回も、以前より関心あった2・3の件について、講演者からもご教示を受け喜んでいる。初めてお会いする方々とも楽しく語らい、亡くなった殉難者を偲んで、ひと時を過ごすことができた。 慰霊祭の開催には多大の御苦労があったと思います。準備に関わった方々に感謝いたします。 ありがとうございました。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
幕末・明治時代(日本史)ランキング 絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です 励みになりますので、できれば以下のバナーもどうぞ にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村