彰義隊士と慰霊祭

先日、上野の彰義隊墓前にて催された戦没者慰霊祭に参列してきた。 今年は、慶応4年から数え、遠忌慰霊法要第148回の年になる。 高祖父にあたる幕臣・河島重蔵源由路が、長男由之16歳と共に彰義隊に参加し戦死しており、その供養のための参列であり、今回が2度目になる。        河島由路
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また、僕にとってはこの慰霊祭は、高祖父の供養のためでもあるが、長男の由之が戦死していれば僕は今現在この世に存在しないことになるので、生き残った由之に感謝をこめて挨拶をする場でもある。 由路が当主のとき、河島家は大膳職賄方、石取でない76俵5人扶持の小臣であったが、賄方は余録が多く、幕府崩壊後も蓄えがあり、残された遺族はそれほど困らなかったという。 屋敷は本郷湯島天神仲坂下にあり、台所の床下に生簀があって、常に生魚が遊泳していた。ここには将軍が食する鯉などが飼われていた。        左下に「河島」の名が見える
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上野戦争後、河島家は屋敷を立ち退くが、そのあとに隣の同朋町から水茶屋「水亀」を営業していた二代目鉄之助が移り住み、魚屋「魚鉄」を開業する。職業柄、河島家と懇意にし魚を扱っていたのかもしれない。いずれにしろ、生簀があり、魚屋には格好の場所だったと思われる。
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      魚屋の末裔の方は今も住んでいる
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この河島家は、遠くは菅家より女子が入嫁した分家であり、本家は京都にて僧籍にあるという。本家の所在は未確認で、現在調査をしている。 由路は、慶応4年5月15日の新政府軍による総攻撃のとき、上野山下三枚橋黒門詰において湯島方面からの銃弾にて胸から背中に貫通銃創を負った。       古写真の黒門詰
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      そのまま描いたとすればここに居るはず
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長男由之と家臣とが夜陰に乗じて秘かに湯島天神下の屋敷内に運び込み手当てを盡したが、その甲斐なく死去する。 その際、着衣の黒衣が当家にあったのだが、その後何時の間にか行方知れずとなっている。 由路の墓は文京区本郷の本妙寺に建立されたが、その本妙寺明治43年に豊島区巣鴨に移転したため、それに合わせ巣鴨に改葬されている。なお、本郷5丁目には「本妙寺坂」なる地名が残されている。    徳栄山 本妙寺にて  両親、妻と一緒に眠っている
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今回の慰霊祭は、例年のように、彰義隊の墓を守ってきた小川一族を始め、彰義隊の遺族の末裔が参集したが、年々その数は少なくなってきている。 再来年の遠忌慰霊法要節目の年(第150回)は、多くの末裔の方々に声をかけて、にぎにぎしく行いたいものだが、残念ながら末裔方々の行方調査などには時間的に厳しいものがある。 慰霊祭は、5月15日13時より墓前において、日蓮宗東京都北部宗務所の主催にて滞りなく行われた。
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法要は、いつものように約1時間ほどで終了し、その後散会した。 ところで本来、慰霊祭を主催すべき彰義隊の子孫の組織だが、今もなきに等しい。 他の東軍・西軍の慰霊祭では主催する組織があるが、実は彰義隊については慰霊し顕彰するきちんとした組織がない。 たしかに、明治7年に小川興郷が上野公園の「彰義隊戦死の墓」を建立し、以後120年余りにわたり小川一族によって墓所は守られてきた。 その間は、資料も展示し墓所横の自宅に彰義隊の子孫の方々も寄ることがあったが、小川家が自宅の立ち退きを迫られて引越しし、今はただ墓がぽつんとあるだけである。 末裔の方々は5月15日の慰霊祭で、年に一度顔を会わせるだけとなり、末裔同志の繋がりが誠に細くなってしまった。 今では法要の前後にお互い挨拶は交わし、名刺の交換はするが、残念ながらそれで終わってしまう。 これでは、交流の時間も十分にないので、改善策として、法要を11時から始め、その後で12時過ぎに直会を行うようにして、その席でお互いの情報交換をする場が設けられればよいと思う。 再来年2017年は、鳥羽伏見の戦い上野戦争から150年になる。 この節目の年に、できれば彰義隊の子孫の会を立ち上げ、しっかりしたイベントができればと考えている。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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