徳川家康公400年祭

今年は家康公が元和2年(1616)に没して400年になる。久能山東照宮では御鎮座四百年大祭が行われ、駿府では1年を通じ四百年祭の行事が続く。4/16に東静岡にて「平成の徳川家臣団大会2015」のイベントが開催されることでもあり、1年半振りに久能山に参拝してきた。 徳川家臣としては、 高祖父に、慶應4年5月15日、彰義隊に親子で参加し黒門口で被弾し戦死した河島由路がいる。 この由路の妻・鋹(とし)の実家も幕臣一家で、弟に小杉直吉、小杉雅之進がいた。小杉家当主の直吉は維新後は徳川慶喜に従い駿府に移るが、のちに新政府に出仕し裁判所判事を歴任した。晩年は駿府に戻り、慶喜の謡・能楽の師匠などでお相手をし過ごしている。 この間に、直吉の3女(鋹の姪)杪(すえ)が松平容保の次男・健雄に嫁いでいる。 健雄は各所の神社宮司を勤めるが、その一つが久能山東照宮宮司であった。 久能山にいる間に、夫妻で写した写真がわが家に残っている。
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写真をみると、駿府の徳田孝吉スタジオでの撮影で、ちょうど慶喜が孝吉から写真技術を学び盛んに写真を撮っていた頃に重なる。 そんなわけで、とりあえずはまず久能山東照宮に参拝した。 4/16、始発9時10分のロープウェイに乗り、日本平から久能山に向かう。 翌4/17の家康公の命日は大変なにぎわいになると予想されたので日をずらしたのだが、久能山での御鎮座四百年祭は、4/15~19まで続く。従って4/16も行事があり、ロープウェイは臨時便がひっきりなしに運行されていた。 乗ると5分程で、久能山に到着する。 この久能山では、松平健雄は明治29年5月5日に宮司として着任し、33年9月18日に退任するまで4年余を過ごしている。赴任した時は宮崎姓であったが、明治30年3月14日に松平姓に復している。 せっかくなので落合宮司にも挨拶をしたかったのだが、宮司は分刻みのスケジュールとの事でとてもそんな時間がない。 とりあえず、「東照大権現」の扁額を掲げた楼門を潜り、廻りを観ながら社殿を目指す。
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かって五重の塔があった跡。五重塔は海からも見えたという。黄色の四角は臨時に造られた演武台
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楽殿に各家の葵の家紋が掲示してあった。微妙に差異がある。
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平成21年3月まで7年余りの歳月をかけて、桃山様式の絢爛豪華な彫刻の漆塗や彩色、錺(かざり)金具などの修理を行い、創建当時の輝きが甦らせ、きらびやかに光る拝殿と本殿に参ってから、廟門を潜って廟所の参道を進む。
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家康公の遺骸が埋葬されている場所に建つ廟に、先祖達に代わり御礼を述べ頭をさげてきた。
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この日は10時から、家康公が最も望まれた天下泰平と無事長久の精神が現在も継承されていることを神前に申し上げ、祈念する平安祭があるため、続々と参加者がやってきて人波となっている。 その人混みをさけ、早々に久能山を後にし一旦ホテルに戻ってきた。
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午后は、東静岡にて、「平成の徳川家臣団大会2015」イベントに参加した。開催イベントは昼、本大会、夜の3部構成だが、本大会のみにエントリーした。 参加対象者は、徳川幕府に仕えた旧幕臣の子孫、徳川みらい学会会員、家康公に関心のある方など
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本大会は、概ね以下の3部構成、 1)主催者挨拶(徳川恒孝氏)、来賓挨拶(静岡市長)、各幕臣の会紹介 2)基調講演 (芳賀徹氏、徳川みらい学会会長) 3)パネルディスカッション(石井久恵氏、植松三十里氏、多田容子氏、田邊鶴遊氏)  主催者徳川恒孝氏の挨拶
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つづいて、芳賀通しによる基調講演。 テーマは、「徳川日本の終焉は何時だったのか」についてで、以下の5つをあげて検証された。 ①大政奉還 慶應3年10月13日 ②王政復古 慶應3年12月9日 ③五箇条の御誓文 慶應4年3月14日 ④江戸開城談判 慶應4年3月13日 ⑤岩倉使節団の派遣 明治4年11月12日 芳賀氏は、岩倉使節団の構成メンバーが、公家2名、新政府18名、旧幕府14名であり、旧幕府の優秀な実務の人材を含めざるを得なかった点を評価し、明治の本当の出発点はここにあるとする持論を展開された。 なかなか面白いイベントにふさわしい内容ではあったが、ここからがいけなかった。 使節団メンバー個々人の詳細に触れ、また幕臣はどれだけ一生懸命勉強したか、そして現在の政治リーダたちはどうかなど独断的は批判を織り交ぜた話などに、大いに時間がとられてしまった。 本大会の運営がわからすると、時間通りに進み無事に終了するのが一つの成功の目安だが、その意味では、波乱含みの大会だったといえよう。 持ち時間を過ぎたので、司会者がメモを入れるが話が終わらない。しばらくしてまたメモを入れるがそれから10分してやっと話が終わった。講演内容は面白いのだが、講演者は自分の持ち時間を守らなければいけない。 講演後、徳川みらい学会の会員で席を立つ人が多く、また聴衆も聞き疲れたのか、全体の1/4は休憩時間に帰ってしまった。 さらにこのあとの3)のパネルディションも大変だった。
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基調講演の時間無視により、パネルディカッションの時間が大幅に縮められてしまっていた。 それにもかかわらず、司会とパネリストの3人が出演者なのだが、自己紹介の段階で、講談師の田邊氏は何を思ったか三方が原の講談を始めた。独演会20分。あとは真打昇段の祝いが東京であるといってそのまま下壇した。これではパネリスト3人のパネルディカッションにはならない。
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残った植松氏と多田氏が残された時間で、家康と徳川家臣団、家康の先見性など貴重な話や古武術の演武でさすがよくまとめては頂いたが、とんでもないハプニングではあった。
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とにもかくにもこのようにして、「平成の徳川家臣団大会2015」の本大会は無事に?終ったのだった。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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