ある写真の人物判定

ある写真の謎解きができた。 終戦後になるが祖父母の代のときに、近所の火事で家が類焼し祖父母と子供6人の一家が焼け出されたことがあった。 そして、子供たちが鎮火した火事場から写真の入った駕籠箱を見つけ、中から燃え残っていた写真を拾い出す。 どの写真も祖父母が大切に保存してきた先祖の写真だったが、残念ながら、焼け跡から取り出せたのは7葉の写真だけで、多くの貴重な写真が失われてしまった。中には祖母の祖父になる三吉慎蔵と坂本龍馬とのツーショット写真もあったという。 取り出せた7葉の中には、高祖父になる幕臣彰義隊に参加し戦死した河島由路の一葉、会津藩松平容保の二男健雄夫妻のツーショット一葉、三吉慎蔵の妻子とその親戚一家の集合写真、小杉家河島家集合写真などがあった。 この中で小杉家河島家集合写真は、左側が1/5ほど焦げて左端の人物二人が誰なのは正確には特定できなかった。
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それが今回偶然に判明したのだった。 横浜市歴史博物館に小杉家資料の一部が昨年から今年にかけて寄贈され、そのミニ展示で寄贈資料が6/2までの予定で展示されている。 その展示会の開催を示すパネルが寄贈者によりFBで紹介された。 そのパネルをみて驚いた。なんとそのパネルの後景に集合写真の一部が映されているではないか。
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この写真は前から探していたが、何度も確認していて存在しないと勝手に思っていたのだが、小杉家から寄贈されたアルバムに収められていたのだ。 この集合写真は明治33年12月13日に、小杉直方五十年忌が宗栢寺で営まれた時に、そのあと、小杉家近くの本郷弓町二丁目の中黒實写真館で撮影した記念写真だ。 法要が営まれた時の小杉家河島家の縁者出席者一覧は以下の通り。
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早速全体の画像を入手した。
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焦げて見えなかった人物は、小杉雅之進の姉鋹(とし)の長男・河島由之夫妻と思っていたのだが、松平容保の二男健雄夫妻だった。
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左から、 〇松平健雄・杪夫妻 ・松平健雄は、明治6年(1873)~昭和2年(1927)、53歳  松平容保二男、久能山東照宮伊佐須美神社宮司 ・松平杪(すえ)は、明治13年(1879)~昭和38年(1963)、84歳  小杉直吉三女。本郷小町と称された。祖父河島精一の初恋の人。 〇小杉直吉・庫夫妻 ・小杉直吉は、天保7年(1836)~明治36年(1903)、68歳  幕臣長崎奉行支配調役並出役、維新後は大審院判事。静岡時代の慶喜の謡の師匠。 ・小杉庫 大久保家より入嫁 〇河島鋹 二段目真ん中の左から3人目  河島鋹(とし)天保5年(1834)~明治37年(1904)、71歳、  小杉直吉、雅之進の姉。夫河島由路は幕臣彰義隊に参加し、上野黒門にて被弾、戦死。  河島由路・鋹夫妻は、僕の高祖父母になる。 〇小杉雅之進・由夫妻 ・小杉雅之進(改名して雅三)天保14年(1843)~明治42年(1909)、67歳  幕臣長崎海軍伝習所3期生、咸臨丸の蒸気方、開陽丸の軍艦役、蝦夷共和国江差奉行並。 ・小杉由  嘉永元年(1848)~昭和10年(1935)、88歳  大野弘娘 〇小杉直 後ろの右から2番目 ・小杉直吉の長男 家統を継がず相原家に養子婿入り 〇小杉辰三・光夫妻 ・小杉辰三 慶應4年(1868)~昭和8年(1933)、66歳、雅之進の最初の養子  仙台藩士・鴉組隊長の細谷十太夫の三男、海軍に入り、のち神戸製鋼所創設に関わる。 ・小杉光子 ? ~明治42年(1909)   「逃げる旗本」の主人公・幕臣山田昌邦の長女。山田昌邦はのちに東京製綱を創設。 前列の座っている学生と子供二人は調査中で確定ではない。 松平健雄の妻の杪(すえ)は、慶喜の能謡の師匠でもあった幕臣小杉直吉の三女で、嫁入り前に本郷に住んでいた時は本郷小町と評されており、高祖母鋹の姪にあたる。
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松平健雄は、久能山東照宮宮司明治29年1月28日に就任(このときは宮橋姓、明治30年2月24日に松平姓に)し、33年年9月18日まで務め、内務省辞令により会津伊佐須美神社宮司として明治33年9月23日に着任している。 宮司とはいえ社務だけではなく東京での会議・出張など多忙であったが、親族の法事に出席し写真に納まったということのようだ。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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