慎蔵は、小坂(おさか)土佐九郎・かつ子の次男で、三吉家の養子になる。
実父の小坂土佐九郎は、長府藩士で剣術指南役であったが、その先祖は、小坂家系図によると、初代について、
「元綱 源姓、小坂土佐守備中國小坂村之住人
穂田元清公江仕致御一字ヲ拝領ス知行五拾石之由申傳
父母共不分
妻佐久間主計某女」
とある。
穂田は穂井田の別名だが、
穂井田元清は、毛利元就の四男として天文20年(1551)に生まれ、慶長2年7月9日(1597年8月21日)に亡くなる。
穂井田姓を名乗るのは、天正3年(1575)に毛利氏に従った備中猿掛城主で三村氏の一族である穂井田元祐(庄元祐)の養子となったからで、以後、毛利氏の東部方面への侵攻を支える重鎮となったという。
そして、その後天正13年(1585)長男の毛利秀元が毛利輝元の養子となったため、元清も毛利姓に復している。
従って、小坂元綱が穂井田元清に仕えたのは、天正3年(1575)から天正13年(1585)の間とみることもできるが、これは今は明確ではない。
ただ、もともと備中小坂村の住人であった元綱が、毛利氏の東部方面の重鎮になった穂井田元清に、この頃仕えたとすると、時間空間的になんとなく腑に落ちる。
ところで、岡山県には「小坂」の地名は三つある。ふたつは備前と美作であり、備中の小坂は今の浅口市にしかない。
浅口市の小坂(こさか)は、今は市町村合併で浅口市鴨方町小坂東、小坂西となっているが、
明治時代の廃藩置県当時は、浅口郡小坂東村、小坂西村であった。
更に以前は、小坂郷などと呼ばれていたらしい。
『故郷地名考』(1970、旧鴨方町教育委員会)によれば、小坂郷についての記述で、「おさか」と呼ばれていたという。
ところで、今の浅口市鴨方町小坂(東・西)の隣には、山を挟んで笠岡市尾坂がある。
このあたり小坂には荘園があったとのことなので、おそらく、昔々、笠岡市の尾坂と、浅口市の小坂とは、一つのまとまった地域で、「おさか」郷と呼ばれていたのではないだろうか?
小坂土佐九郎とその先祖が、「おさか」と名乗っていたのはもともとその地が「こさか」ではなく、「おさか」と呼ばれていたからだと思うが、
これは、笠岡市史の地名の項などで、これからの確認になる。
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