桃井直常の関係史跡巡り

先日、足利家の枝族で、南北朝時代越中守護に補任された桃井直常(もものい ただつね)の関連史跡と、直常から6代目の小杉家初代尚芳の発祥の地とを富山に訪ねてきた。
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あまり時間もないのでコースは、県立富山南高校(資料確認)-->小杉神社(由緒確認)-->興国寺(桃井直常墓所、位牌、資料確認)-->龍高寺(磬石確認)の順に効率よくまわる予定を組んでおいた。 コース内はすべて歩いたが、富山地方鉄道の駅名でいうと、「小杉」から、「布市」を通り、「開発」の各駅まで歩いたことになるが、それほどたいした距離ではない。 今回絶訪ねる場所は、富山「地方」鉄道の名の通り、富山市内とは言ってもかなり田舎で、いずれの駅も無人駅。電車はワンマンカーで、運転手が改札の役目もしている。 この地域は、住宅地が密集した場所もあるが、殆どは遠くに雪を頂いた立山連峰の見える田んぼの多い所で、どこか懐かしい日本の風景の中にあった。 まず、小杉駅で降りて、駅北東の桃井一族がまだ住んでいるという一帯と、発祥地の小杉を歩き回ってみた。
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そして近くの県立富山南高校を訪ねる。
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ここには過って地理歴史部があって、地元で活躍した桃井直常について研究し、その成果を冊子にまとめている。
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その「越中の猛者桃井直常」と「南北朝の動乱桃井直常」の2冊を拝見したく訪ねたのだが、残念ながら地理歴史部は既に廃部となり研究資料は直ぐには見つからないとのことで、他で探すことにし、高校はすぐに後にした。 それから小杉神社を訪ねる。
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由緒書きによって桃井直常、小杉家との関係を調べたいと思ったのだが、江戸時代中期に再建され、その前身は富山南部の地名「太田」を冠した太田八幡宮だという。 従って今の小杉神社は、桃井直常、小杉尚芳とは直接は関係はないらしい。 遠く立山連峰を観ながら、次の訪問地、桃井直常が開基した布市の興国寺を目指した。
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興国寺では、道すがら電話連絡をしていたので、御住職が資料を用意して待っておられた。
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「興国寺史」、「南北朝の動乱桃井直常」、それからコピーした系図などを拝見した。「南北朝の動乱桃井直常」は一部しかないため、写真撮影させていただいた。 珍しいものでは、御住職からの色々なお話の中に、斎藤道三の孫・斎藤龍興のことがあった。龍興は、縁戚関係にあった朝倉家に庇護されていた時に、朝倉軍が織田軍に敗れてそのとき戦死したとされるが、実は富山に遁れ来て後にこの興国寺の住職となったと伝わる。              二十八代住職が龍興
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寺には、龍興が持参したという鎧鞍と念持仏(木造阿弥陀如来立像)が伝えられている。 本堂で桃井直常の位牌と念持仏、そのあと寺の裏にある墓所を拝見した。              直常夫妻の位牌
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             直常の念持仏、聖観世音菩薩像
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墓には、桃井直常、その奥方、息子直和の3人が眠っている。
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墓所は月日が経ち荒廃が甚だしいため、昭和35年(1960)に復元されている。 今でも墓石はかなり傷んでいて、当時の宝筺印塔の残石のみが残っている。 復元の際、墓と墓石は、墓所内の最初の埋葬地から現在の場所に、5mほど移して改葬されているとのこと。 次に最後の訪問地、開発(かいほつ)の龍高寺を訪う。
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このお寺は、桃井直常の祈願所であって、元は、興国寺の近くにあったが、火事なども遭い今は一駅離れた現 住所に移り替わっている。 ここでも、御住職が忙しい中お待ちになっておられた。 早速、本堂に上がり磬石(けいせき)を見せていただく。直常は相撲が好きで、この石を叩いて応援したと伝わる。
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磬石は非常に重く、鉄分が多く含まれているのか高い金属音のように響く。 当時と同じ音色を聴くという大変貴重な体験をさせていただいた。 約2時間弱の駆け足の先祖調査だったが、人的な交流が出来て喜んでいる。 お世話になった、南高校、興国寺、龍高寺の皆さんに大変親切に案内いただきました。 ありがとうございます。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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