桃井家と幸若舞

幸若舞」と聞くと、織田信長桶狭間の戦いの出陣直前に舞い謡った「敦盛」の場面を思い浮かべる。 当初、幸若舞はお祝いの意味合いが強かった。しかしだんだんと、平家物語曽我物語など軍記物を取り入れた曲目が増え、武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多くなり、これに共鳴した戦国時代の武士の間で愛好されるようになっていく。 一ノ谷の戦い平敦盛熊谷直実を描く『敦盛』は特に好まれ、信長も愛好したようだ。 幸若舞曲の創始者の桃井直詮は、源義家から10代後の桃井越中守直常の孫で、直常の子・直知と朝倉敏景女との間に、応永10年(1403)に越前西田中村(現・福井市丹生郡朝日町)で生まれた。文明2年(1470、文明12年との説もある)5月2日に没したとされる。幼名を幸若丸といい、従五位下宮内少輔に任ぜられている。 父直知が応永19年(1411)に没した時、幸若丸は10歳であったので、父の従兄弟に当たり当時剃髪して比叡山光林坊に住んでいた桃井詮信を頼った。観音を信仰し和漢の書を好んだといわれるが、生まれつき歌舞音楽に優れた才があり、音声を研究する。ある時、草紙の「八島の軍」に曲節を付けて吟誦したのが、学侶に認められ評判になる。その後、後小松天皇は勅して直詮を召し、更に数曲を集めさせた。これが幸若舞の曲の始まりで、「平曲」や「太平記読み」などにならい、これに声明の曲節を取り入れた。また在世中に多少の振り付けも行われたらしい。これが越前幸若舞の始まりである。 伝によると、後花園天皇の勅により太夫の称を得て、幸若太夫安真といった。 越前幸若舞は、幸若氏(桃井八郎九郎・弥次郎・小八郎)のみに伝承された。信長、秀吉に庇護され、徳川幕府においては式楽担当の役目をもつ幕臣となり、大政奉還を迎える幕末まで奉禄を下賜されてきた。そのため、江戸幕府崩壊と共に命脈をたつことになり明治維新と共に廃業した。 今現在、幸若舞は、福岡県瀬高町大江の大江天満宮にて、1月20日に奉納され、ここでしか見れない。 国指定重要無形民俗文化財で、日本最古の舞として700年の伝統をもち、日本芸能の原点といわれている。 福岡県に伝わるのは以下の由縁による。 初代幸若の子弥次郎の弟子に山本四郎左衛門という人がおり、幸若舞の一流である大頭流をたてた。その弟子の百足屋善兵衛の、そのまた弟子(つまり山本四郎左衛門の孫弟子)の大沢次助幸次という人が、天正10年(1582年)、筑後の山下城主蒲池鎮運に招かれて九州に渡り、柳川城主の蒲池鎮漣などが家臣達にこの舞を教えたと伝えられている。それが大江幸若舞明治維新後、禄を離れた各地の幸若舞はその舞を捨ててしまい、この大頭流の大江幸若舞のみが現在に伝わっている。大江の地に受け継がれてから、2015年現在で228年の伝統がある。 演技方は、太夫、シテ、ワキの3人で、ほかに鼓方が一人。太夫が主に謡い、シとワキがそれを助ける形で進行する。舞というより、謡うことに主眼が置かれている。 ところで、桃井直常の6代目に、尚芳がでて小杉家を興す。富山の小杉出身である。 3代目小杉直時は右藤治、5代目小杉吉診も右藤治、7代目小杉直吉は右藤ともいう。 右藤(うとう)からは、能の演目の善知鳥(うとう)を連想する。富山の立山は古くから山岳信仰の場として修験者を集め、その荒々しい地形を地獄に見立てた立山信仰で有名だった。これが「立山地獄説話」として室町時代に「善知鳥」という演目のもとになった。
画像
小杉家代々の名は、能をよくし、善知鳥から由来するような気がしてならない。 小杉雅之進の兄直吉は、最後の将軍・徳川慶喜の謡、能の師匠でもあった。幸若丸の縁者の血は争えないのかもしれない。 参考:『南北朝の動乱桃井直常』     『大江の幸若舞 変遷と今』      Wikipedia幸若舞」 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
幕末・明治時代(日本史)ランキング 絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です 励みになりますので、できれば以下のバナーもどうぞ にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村