小坂家の出身地・備中国小坂村

三吉慎蔵の実家・小坂家の出身地・備中国小坂村を調べている。
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調査はとりあえず、以下の資料から行った。 ①藤井駿氏「三聖寺文書に見える備中国小坂庄」 ②鴨方町鴨方町史」 備中国小坂村については、①の藤井駿氏の研究が秀逸で、小坂村について初めて史料をもとに明らかにされたようだ。 小坂荘なる荘園が中世の備中に存在したらしいことは知られていたが、その存在を知るに足る史料は一向に見つからなかった。昭和31年になって初めて、京都の『三聖寺文書』の中に小坂荘の関係文書が若干ある事が分った。ただし、「三聖寺文書にみえる小坂荘に関する資料も断片的で、その歴史を明確に知るには頗る不十分である」としながらも、この文書を紹介して小坂荘の歴史の輪郭だけでも明確にしたいとして、上記論文を書いておられる。 まず、小坂荘の読みであるが、『和名抄』では、浅口郡小坂郷を「乎佐加」と訓じているらしい。藤井氏は鴨方町小坂西・小坂東を現在「こさか」と呼んでいるので「こさか」と呼ぶ方がよいとしている。しかし、『鴨方町史 本編』によれば、小坂は『和名抄』では「ヲサカ」と読み、刑部の字が小坂部「おさかべ」になり、その略であり、弁恭天皇の皇后の御名代であるという。 僕としては、幕末時の長府藩士・小坂土佐九郎の先祖初代が備中国小坂村出身であり、自分の姓を「おさか」と呼んでいたことから、小坂荘は当然「おさか」であろうと考えている。 備中国吉備津神社文書(流鏑馬料足納帳)に見える「おさか」
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この小坂荘に関する史料が三聖寺に伝えられたということは、三聖寺が小坂荘の所職(しょしき、職務に伴う権益)をもつなど深い関わりを持っていたことを示している。所職には、領家職と預所職がある。 「領家」とは荘園領主のことで、「預所」は領家の代理人として荘務を預かる荘官のひとつで、下司・公文などの下級荘官を指揮して荘地・荘民などの管理を行う。 藤井氏によれば、小坂荘は始め皇室領であり、その領家職は鳥羽天皇から6代後に西阿尼に伝えられている。
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一方、小坂荘の預所職は藤原宗業から4代後に、やはり西阿尼に至っている。
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小坂荘の領家職と預所職の両職を西阿尼が所有するに至った理由も西阿尼の経歴も不明であるが、両職は西阿尼から慈一上人(1231-1291)に与えられた。慈一上人は、のちに禅院としての三聖寺の開山に請ぜられ、やがて万寿寺(京都五山の一)の住持となり、ついで東福寺二世(東山湛照)になる。正確に言えば西阿尼から慈一上人への両職の移動は譲渡ではなく、三聖寺への寄進行為であり、私領ではなく、寺領と認識されている。 ところで、慈一上人は、備中国下道郡二万郷(現在の岡山県吉備郡真備町大字二万)に誕生している。二万郷から小坂荘は約13キロ西南に当たる土地であった。 「三聖寺文書」には、小坂荘を巡る実に様々な各人の争いの文書が収納されている。中には年貢を巡る争いの訴えに対する摂政や将軍の御教書なども収納されている。ただ、内容は最終的には荘園を巡る権益の争いに帰着する。 登場人物は、領家職・預所職を持つ三聖寺、三聖寺領の小坂荘雑掌(荘園管理に当たり在地で年貢・公事の徴収に当たる「所務雑事」と、在京して荘園の渉外事務、特に訴訟に当たる「沙汰雑掌」の別がある。この場合は沙汰雑掌)、それに武士として力をつけ台頭してきた地頭(庄氏)、幕府の六波羅探題などなど。 地頭の庄氏は、中世における備中国の豪族であり鎌倉幕府の有力な御家人であった。 一の谷合戦のとき、庄家長は平重衡を生け捕り、その功をもって備中国小田郡草壁荘を賜り武蔵国より移住した。この草壁荘と小坂荘とは直線距離8キロを隔てるだけである。鎌倉初期、草壁荘の地頭となった庄氏は、初め草壁荘を根拠としていたが、やがて鎌倉末期には小坂荘にも進出し、小坂荘の地頭としてもその羽翼を伸ばすに至ったものと思われる。 鎌倉末期における小坂荘の地頭の庄氏の活躍は、小坂荘もまた、当時ややもすれば地頭がその権限を越えて領家の荘園支配を侵犯していく一般的傾向の例外でなかったことを証明している。 三聖寺は、永仁元年(1293)のころ、その所有する小坂荘の預所職を福昌寺に譲与している。 そして、乾元2年(1303)後宇多院に対し、福昌寺は小坂荘を不知行(実際に支配していない状態)であるにもかかわらず、小坂荘の所職を長講堂(御白河法王が仙洞御所に営まれた持仏堂)に寄附しようとする。 小坂荘は、もともと皇室領であり、やがて三聖寺領となったが、地頭や武士によって侵略され漸く不知行とならんとした荘園を皇室領とすることによって、何とか維持を保とうと図ったものと思われる。 ただこの試みは、不知行の故であろうか、後宇多院から拒否されている。 南北朝時代の永徳元年(1381)12月に足利義満は福昌寺を祈願寺としているところをみると、当時も福昌寺は足利幕府によって相当に保護されていることは分かる。 そして、三聖寺文書に、明徳3年(1392)付けの書状がある。 「福昌寺領小坂荘について申上げます。近年、庄・小坂に年貢が請け負わされたが・・」と述べ、領家職を福昌寺に渡すように依頼している、小坂荘の領家職が福昌寺に渡されたかは分からないが、とにかく、小坂荘領有権はようやく風前の灯のようになった思われる。福昌寺領としての小坂荘の消息もこのあたりでその痕跡を消している。
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この史料で、年貢を請け負った庄氏とともに、初めて小坂氏が登場する。 小坂氏が三聖寺文書に出てくるのはこの史料だけであるが、庄氏とともに、南北朝期の戦乱の中で勢力を伸ばしてきた国人(在地領主)であろう。庄氏が東国から移住してきた児玉党で出自もわかっているのに対し、小坂氏については明確なことは何も分っていない。 ただ氏から判断すると、小坂荘の有力者から成長してきた武士ではないかと思われるだけである。 南北朝の動乱を描いた『太平記』に、この小坂・庄など備中国の国人の動きが初めて描かれている。 後醍醐天皇隠岐から脱出すると、備中国人が馳せ参じる。 太平記 第七巻 〇船上合戦事 の項では、 「主上隠岐国ヨリ還幸成テ、船上ニ御座有ト聞ヘシカバ、国々ノ兵共ノ馳参事引モ不切。先一番ニ出雲ノ守護塩谷半官高貞、富士名判官ト打連、千余騎ニテ馳参ル。(中略) 備後国ニ江田・廣澤・宮・三吉、備中ニ新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁)(中略)、我前ニト馳参リケル・・・・・」 ここには、 三吉慎蔵の三吉家、実家の小坂家の源流が、共に出現している。 後醍醐天皇による建武政権は、その復古理想主義的な政策が、馳せ参じた国人の失望を買い、建武2年(1335)11月、細川定禅が壱岐国で反旗を翻し、これに応じた備前国人飽浦信胤・田井信高らが備中福山城に寄った時の事を、児島高徳が都に報告している。 太平記 第十四巻 〇諸国朝敵蜂起事 「其翌日ニ小坂・川村・庄・真壁・陶山・成合・那須・市川以下、悉ク朝敵ニ馳加ル間、程ナク其勢三千騎ニ及ベリ。」 時勢をみる国人の眼は確かであった。時代の趨勢を的確に把握しその動きに素早く対応することにしか、弱小の国人の生き延びる道はなかった。 後になるが、戦国期は荘園制の解体過程、すなわち近世的村の成立過程に当たる。小坂荘から小坂村に何時移行したかは明確な史料がないが、いずれにしろ、小坂荘出身の小坂氏は、小坂村の成立までは、備中国にいたことになる。 参考: 「三聖寺文書に見える備中国小坂庄」(岡山大学法文学部学術紀要19号、藤井駿、昭和39年) 『鴨方町史 本編』(鴨方町史編纂員会 平成5年) 『鴨方町史 史料編』(鴨方町史編纂員会 平成5年) 『太平記』(日本古典文学体系 昭和35年) 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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