山国隊の復活

昨日は、京都にて山国地域と山国隊の歴史についての展示を拝見し、講演会を拝聴してきました。05.jpg 昨年は明治150年の節目の年で、戊辰戦争で活躍した山国隊が再び日の目を見た年でした。 明治28年(1895)に、平安遷都千百年記念祭の開催にあたり、実質的な実行責任者の西村捨三はその催しの一つとして時代祭りを企画した。その後の時代祭でも、山国隊はつねに祭列の先頭を歩んでいた。155689002024696406178_02.jpgDpmhKlXUcAANlb0.jpgIMG_0290.jpg しかし大正6年(1917)を最後に山国隊は時代祭への参加を辞退した。昨年、明治150年記念を契機に101年ぶり参加した。これはまた山国隊の隊結成からは150年ぶりともなる。10.jpg 祭列が出発する前に京都御苑上京区)の建礼門前の行在所祭で山国隊が2曲(礼式曲と行進曲)奉納演奏する(10月22日)DSC_0067_20181023.jpg 戊辰戦争で出征前に北野天満宮の南にある茶畑で訓練を行い、訓練の行き帰りに必ず天満宮に向かって拝礼したことにちなみ奉納演奏する(11月4日)12北野天満宮.jpg この北野天満宮には、京都に凱旋した山国隊が明治2年に京都を去る際に、奉納した石燈籠がある。17北野天満宮5.jpghttps://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/005/646/54/n000/000/000/157035897553267733674-thumbnail2.jpg"18北野天満宮4.jpg 明治元年11月25日に京都へ凱旋した歴史にちなみ、11月25日に二条城にて行進し鼓笛演奏を行った14二条城.jpg 昨日の、特別講演は、松田隆行氏「山国隊の歴史」と、吉岡拓氏「山国隊の出征経緯を再考する」。 山国隊についての僕の関心は、 ①生野の義挙にて小山六郎と義兄弟の縁を結んだ原六郎が、鳥取藩の13番隊・山国隊の司令士として参加していること、 ②河島由路は、彰義隊に参加し黒門口にて被弾し戦死した。この前後、山国隊は雁鍋から黒門を射撃し、黒門隣の山王台に攀じ登り一番乗りをしたこと、 ③彰義隊の遺骸について、円通寺の住職に埋葬を許可したのは鳥取藩士で山国隊隊長の河田左久馬であり、山国隊士も埋葬の実務を担ったこと、 ④西村捨三が企画し実施した時代祭に、山国隊は如何なる経緯で参加したのか? などなどなのですが、 残念ながらこれらについての言及はありませんでしたが講演は初めてお聞きする内容もあり、いずれも素晴らしいものでした。 松田氏の講演からは、 戊辰戦争勃発で早々と新政府側に従って山国隊が出征したのは、山国地域が古来禁裏杣御料地として都造営の木材を供給するなど、天皇・朝廷と歴史的に深く結びついていたことに要因がある、ことがよくわかります。 山国隊に関しては、その誕生と出征、各地での戦い、鼓笛隊の導入、凱旋と招魂社の創建、招魂祭維持のため「山国社」の結成、士族編入誓願など、全体をカバーし一連の流れが理解できる筋立てでした。 明治28年(1985)に時代祭に「山国隊」として参加したものの大正6年に辞退していますが、その理由として挙げていたのは、参加者の高齢化と財政上の理由や農繁期と重なるなどとのことでした。 また、上野戦争では山国隊が上野山の山上に一番乗りを果たす活躍を見せたと「伝えられています」との説明がありました。 これは、薩摩藩遊撃隊一番隊と熊本藩兵の二隊、そして鳥取藩兵所属の山国隊が決死隊として山王台脇の崖を攀じ登り、彰義隊との攻防ののち、山国隊が一番乗りし占拠したことを、指しています。講演後に、確認できる一次史料についてご教示いただきました。 吉岡氏の講演は、なかなか熱のある講演でした。 従来の「山国隊の出征経緯」の通説に対し、具体的な史料をもとに別の可能性を唱えるものでした。 通説では、山国隊は、山陰道鎮撫隊総督の西園寺公望の発した「檄文」に呼応して、つまり要請に応じて出征した、としてますが、 吉岡説は、後世に檄文と名付けられた文書は正月10日の日付であり、山陰道鎮撫隊が到着した馬路村で、実際に隊を見た藤野斎(山国神社神職、のち山国隊取締役)たちがすでに正月4日に出征を決意している。すでに6日も前に出征を決意しており出征は自主的なものと考えられると、主唱しています。 それは、御所の警衛(第一陣)と出征軍費(第二陣)自弁のためにできた膨大な借金(7788両)を解消するため、自主的出征ではなく要請出征としたかったからではないか、と推論しています。 ただ、明治4年に奥山の山林四十四町歩を売却し借金は返済したという説があるが、この説への言及はありませんでした。聞いてみたいところではあります。 また、山国隊の正式な部隊名をもらう前に、正月11日に山国神社にて農兵隊を結成する際に読み上げたとされる「誓書」は、のちに作られたもので、このとき読み上げた「定め」には「今般名主一同勤皇を唱え」の一文がない。「勤皇」を強調することで、士族編入誓願を少しで有利にしたいがためではなかったか、と話されていました。 あまり詳しくは知らなかった山国隊について随分勉強させていただいた講演でした。ありがとうございます。 参考: 京都・亀岡保津川下り、真志@山国隊、     京都観光研究所ブログなどから写真を拝借しました。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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