いよいよ日本では大政奉還後から戊辰戦争へと激動の時代に入っていく。
今回以降しばらくは、僕にとって身近な話が出てくるようだ。
慶応4年の鳥羽伏見の戦いでの敗戦を機に、徳川慶喜は松平容保など側近や幹部を連れて開陽丸にて江戸に帰る。
<慶喜が容保たちを連れ、開陽丸へと逃れる場面>
<開陽丸>
この開陽丸の蒸気方一等(機関長)は「小杉雅之進」。
<25歳頃の小杉雅之進>
この危急時の航海での慶喜・容保との縁もあってか、のちに雅之進の姪が容保の次男・健雄の妻になっている。
<松平健雄と妻小杉すえ>
放映では簡単に彰義隊の話にも触れられていたが、おそらく次回の放映では渋沢喜作が結成し頭取となる彰義隊の場面が出てくるのだろう。
彰義隊には、小杉雅之進の義兄「河島由路」が16歳の長男由之と参加し、黒門口で銃撃を受け戦死している。
<幕臣 河島由路>
<黒門と河島家との位置関係>
<この白兵戦の絵は有名だが、黒門口では白兵戦はないという説が有力>
<被弾した場所にあった黒門の弾痕をみると感慨深いものがある>
この河島由路親子は、喜作が彰義隊頭取である間に参加したのかどうかは調査中でまだはっきりしていない。
上野の山一番乗りは山国隊といわれている。
河島由路が黒門口で被弾したのは、ひょっとしたら雁鍋の二階からの山国隊士の銃撃によるものだったのかもしれない。
そうであれば、銃撃に参加した山国隊司令士の原六郎の可能性もありうる。
原六郎は文久3年の生野の変にも参加しているが、原の義兄弟にはこの変に共に参加した同じ但馬在の「小山六郎」がいる。
<小山六郎は生野の変に参加し、記録を残している>
<残念ながら小山六郎の写真はない>
ところで、彰義隊が担いだ主は、輪王寺宮になる。
上野戦争後に東北地方に逃れ奥羽越列藩同盟の盟主になるが、勝敗が決したあとは京都に謹慎しのちに還俗してドイツに留学し、留学中に北白川宮家を嗣ぐ。
<輪王寺宮、のちの北白川宮能久親王>
宮がドイツ留学から帰国した明治10年、宮内省から呼び出され宮の御付を命じられるのが「三吉慎蔵」。
<明治11年末の三吉慎蔵>
僕にとっては、幕臣の小杉雅之進、河島由路、生野の変に参加した小山六郎、龍馬と生死を共にした三吉慎蔵、
この先祖縁者たちが不思議な縁で結びついているのが面白く、このことを歴史の綾と呼んでいる。
<三吉慎蔵と坂本龍馬>
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