長府藩士三吉慎蔵は、幕末に2回江戸へ下っている。
その最初は、安政5年(1857)。
藩主毛利元周の参勤交代の先着として3月17日に江戸入りした。
そして翌年江戸を離れるまでは様々な事件が起きている。まだ政局の中心は江戸だった。
4月23日に井伊直弼が大老に就任し、
4月25日に日米条約の儀について総登城があり、藩主のお供で初めて江戸城に登る。
6月16日に日米修好通商条約が勅許を得ずに締結され、
7月19日に将軍家定が薨去する。
12月1日に家茂が将軍宣下を江戸城で受けるが、そのため藩主元周のお供で二度目の江戸城登城をする。
翌安政6年4月3日に江川太郎左衛門につき西洋砲術を学び、
5月25日には長府へ帰藩している。
このなかで個人的には、慎蔵が学んだ江川太郎左衛門の江戸での砲術訓練場所や学んだ教授方に関心がある。
36代当主江川太郎左衛門英龍は、もともと本所南割下水にあった江戸屋敷と韮山の江川邸で砲術の訓練、教育を行っていた。ただ、それが不便ということで、幕府勘定方に韮山塾を廃止して江戸の広い場所で一括調練を行いたいと願い出る。
その願いが叶って幕府から許可が下りたのは英龍が死去した安政2年。これが、英龍の功に対して幕府が英龍の子・大郎左衛門英敏に与えた砲術訓練所となる。
場所は浜御殿(今の中央区浜離宮恩賜公園)近くの芝新銭座(今の港区浜松町1丁目・海岸1丁目)。
この場所で、縄武館という半官半民の塾が開かれる。別名を江川塾という。
この縄武館(江川塾)に、大鳥圭介が安政4年に兵学教授として招かれ、安政6年にはここで初めて漢字と仮名の鋳造活字による組版になる『築城典刑』という有名な本を出版する。
つまり、三吉慎蔵が縄武館(江川塾)で砲術を学んだ安政6年は、そこには大鳥圭介が兵学教授として勤めていた。
『三吉慎蔵日記』に記述はないが、慎蔵が誰から大砲操練を学んだのかが気になり、調べている。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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