7/16夜に新潟市内にて友人達との会合があり、折角なので7/16午後と、7/17半日をかけ北越戦争の史跡巡りをしてきました。 じっくり廻ると3泊は要るような気がしますが、1泊だけの駆け足の史跡巡りです。 僕は基本的に地勢や距離感も把握するためすべて足で廻ることを基本原則にしている。 従って、時間的に廻れる箇所は限られてくるのは致し方ありません。 但し、新潟==>関谷、 新潟-==>小千谷==>長岡==>新潟は在来線や新幹線を利用しています。 7/16は 午後、新潟市内で、関谷駅-->念仏寺-->戊辰公園-->新潟護国神社-->大神宮-->旧招魂社跡-->白山公園を巡る。 ・関谷では、関谷金鉢山に登り西軍陣地跡を確認した。この場所は、西軍が慶応4年7月29日未明に信濃川対岸より渡河し陣地を築いた場所で、標高20mだが360度周囲が見渡せ戦略上重要な場所で、なぜここを西軍が最初に確保したのか、よくわかる。 ・念仏寺は、元治元年に関屋の庄屋・斉藤金兵衛が創建し明治44年に改築されている。墓地の奥に「戊辰の役米沢藩戦死者四士の墓」がある。4人は、米沢藩家老東軍総督色部長門、色部長門の首を切った浦戸儀左衛門(色部の御用人)、原廉太郎(組外組、後に五十騎に入る)、斎藤作兵衛(色部家家来)。 ・戊辰公園には、米沢藩家老東軍総督「色部長門君追念碑」がある。米沢藩は奥羽越列藩同盟の一員として、新潟市や長岡市方面に出陣し、新政府軍との間で激しい戦闘を繰り広げ、新潟市では総督色部長門をはじめとする米沢藩士多数が戦死した。色部長門は、慶応4年7月29日に学校町天神様上手の茄子畑で新政府軍の高鍋藩の銃に撃たれ、御用人の浦戸儀左衛門に首を切ることを命じ死去した。その色部長門が戦死した場所に、昭和7年に関屋の庄屋斉藤金兵衛の子・斉藤巳三郎氏が会長の「新潟関屋戊辰戦跡保存会」により慰霊碑が建立された。碑文は徳富猪一郎(蘇峰)の撰、落合東郭の書、篆額は最後の米沢藩主上杉茂憲の子・上杉家第15代上杉憲章による。
・新潟護国神社は境内が広大で、戊辰戦争以後太平洋戦争までの数多くの慰霊碑が建立されている。この護国神社は昭和20年に現在の地に遷宮したが、そのときに「戊辰の役殉難者墓苑」を造営し、招魂社より西軍戦死者の墓碑を移設している。 また昭和60年に新潟大学の有壬記念館の建設の際に土中から発見された東軍戦死者の遺骨92体も移設している。
また、戊辰戦争から120年の昭和63年には、「戊辰役東軍慰霊碑」が建立され、両軍が一緒に慰霊される場所となっている。
・大神宮には、「殉節之碑」がある。戊辰戦争で越後の地で亡くなった会津藩士の霊を慰めるために当時の生き残りの越後在住の同藩藩士が中心となり苦しい生活の中から資金を出しあい明治23年に建立した。平成22年に同碑は修復されている。
・旧招魂社跡は、明治元年に西軍の戦死者だけを埋葬し招魂場とし、その後招魂社、護国神社に改称している。護国神社が現在地に遷宮したあと、新潟大学の有壬記念館の建設中に東軍戦死者の遺骨92体が発見された。 ・白山神社は、長岡藩牧野家が庇護した神社で、航海の安全を祈る廻船の船主、問屋、船頭などの信仰を集めた。この神社と隣接した白山公園に以前「戊辰の松」があったが昭和40年の台風で折れて松は現在はない。戊辰戦争の時、白山神社境内にも砲弾が飛びかい、皮一枚になって生き残った松が「戊辰の松」と称されていた。
7/16新潟市内を歩いた距離は、16.7kmです。
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