一週間前になるが、開花のたよりに誘われて新宿御苑の桜を拝見してきた。ここは東京でも早咲きで、桜の品種の宝庫でもある。
上の池、中の池、下の池等の池が御苑を横切っているが、下の池には、3種類の枝垂れ桜が植栽されている。
写真は、下の池端で水辺を彩る「枝垂れ桜」
ハナモモ、「源平」。桜ではないがひときは目を引く。花を観賞するために改良されたモモで、一本の木から白、桃色、紅色の異なる3種類の色の花が咲く、源平という品種。源平なら紅白だけでよいのではと思ったが・・・・
「陽光」寒緋桜群の園芸品種。天城吉野と寒緋桜を交雑して作出。花は紅紫色で一重咲き。
「大島桜」伊豆大島に特に多い。花は白色で一重咲き。
「染井吉野」時期的にはやや早い。江戸彼岸群の園芸品種。花は淡紅色で一重咲き。
「アメリカ」江戸彼岸と大島桜の種間雑種。
「小彼岸」春の彼岸の時期に咲く。江戸時代から栽培が始まった。一重咲き。
新宿御苑は、信濃高遠藩内藤家三万三千石の66,815坪あった下屋敷の跡で、新宿区内藤の地名が残る。
高遠藩は、第二代将軍秀忠の四男、後の保科正之を預かったことで知られる。
正之は、慶長16年(1611)5月7日、生まれる。幼名は幸松。母は秀忠の乳母の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘・お静(お志津、のちの浄光院)。
恐妻家の秀忠はお静の妊娠を知り、正室お江与の癇気を恐れ、お静を武田信玄の次女・見性院(穴山信君正室)に預けた。そこで生まれた子は幸松と名付けられ、見性院に養育される。この事実は秀忠側近の老中・土井利勝他数名のみしか知らぬことである。元和3年(1617年)、武田氏ゆかりの信濃国高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子という名目で養育される。
お江与の死後、寛永6年(1629年)18歳にして初めて父・秀忠との面会が叶う。寛永8年(1631年)高遠藩3万石の藩主となり、正四位下肥後守兼左近衛中将を拝受。以後、通称・肥後守と称される。
保科正之は、幕末時の会津中将松平容保の祖先にあたる。
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