三吉慎蔵の娘・友子

昨日、10月31日は三吉友子の祥月命日

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友子は、慶応元年(1865)5月3日に、長府藩士三吉慎蔵・伊予との間に長府にて誕生した。

次女であるが、文久2年(1862)に生まれた長女茂子が元治元年(1864)に3歳で早世したため、明治期に何回もある転居届けなどでは同居人として長女と記している。

名前は、慎蔵の幼名友三郎から取っている。万延元年(1860)生まれの兄の米熊とは5つ違いになる。

友子が生まれる1ヶ月前の慶応元年4月7日に、慎蔵は近待扈従役並びに山口在番役を免ぜられ、東豊浦郡代を命ぜられる。この頃、萩藩主が山口から萩に移っていたため、同じく萩に慎蔵は家族と滞在していたが、お役御免となり慎蔵と家族は長府に戻ってくる。伊予はこの時9ヶ月の身持ちだったので、萩から長府までの旅は大変だったと思う。

慎蔵はこの頃も多忙で、4月28日には山口表へ国事につき内用にて出立し、長府へ戻るのは5月5日なので、友子が生まれたのは山口出張中のことであった。

兄米熊が生まれたときも、井伊直弼が暗殺され世情不安の中、特命にて藩主毛利元周公に倍駕し江戸へ登っており、不在であった。

慶応3年12月、龍馬が暗殺されたあと、お龍と君枝の姉妹は三吉家で預かる。

場所は長府南之浜 (中浜、現在の松岡病院のある場所)で、同居した家族は、

養母喜久(54歳)、慎蔵(37歳)、妻伊予(27歳)、長男米熊(7歳)、次女友子(3歳)、

そして、お龍(27歳)、君江(16歳、異説あり)。

このとき、3歳の友子はお龍に子守をして貰ったことがあると伝わっている。

慎蔵は、明治4年9月に長府毛利家家扶として上京するが、当主毛利元敏公が3年間洋行する間、家族を長府から呼び寄せ、明治5年(1872)3月から愛宕下の長府毛利邸内(現・港区愛宕1丁目1番街区、2番街区)に住み、妻の伊予が奥様のお世話をする。

友子は、明治8年(1875)11月に、10歳6か月で公立桜川小学校第三級に中途入学している。

明治9年(1876)5月に、慎蔵一家は愛宕下長府毛利邸内長屋から、すぐ近くの西久保桜川町(現・港区虎ノ門1丁目22番)へ転居する。

明治10年9月、慎蔵は宮内省に出仕し北白川宮能久親王の御付になる。

現住所では北白川宮邸まで不便のため、北白川宮邸に通りを挟んで隣接している楫取素彦邸(現・千代田区平河町2丁目4番街区)の長屋に転居し、明治12年12月には、楫取邸敷地内に家を新築する。

明治13年1月18日、北白川宮より家族一同召され新年祝いの御酒を授かる(毎年続く)。

ところで、友子は明治13年9月21日に桜川小学校を卒業している。

転居した先から小学校まで(麹町中学の辺りから虎ノ門ヒルズあたりまで)は歩けないことはないが、足が弱かった友子には無理があり、慎蔵以外は元の西久保桜川町に暮らしていた可能性は残る。

小学校卒業の後、レース学校に通い、成績が良かったのか明治16年には東京府庁より教師見習いとして雇いたいとの話がある。

明治18年(1885)10月には、皇后・皇太后が勧古美術館に行啓なされ、御前にてレースの実業を披露している。

明治19年(1886)22歳で、琴の免許を伝授され、10月に京橋英語学校に入学する。

明治20年1月5日に慎蔵と一緒に、北白川宮へ新年宴会のため参殿している。

友子の写真は1枚だけ伝わっているが、この頃写した写真と思われる。

4月に東京府工芸品共進会へ出品したレース製造品が、他2名と共に2等賞になり、総裁有栖川宮より銀杯を授与されている。

明治21年(1888)1月に明治女学校に入学する。

この時学校は九段下牛ヶ渕(現・千代田区飯田橋)にあって、巌本善治が教頭で、そうそうたる人材が教師に並んでいた。当時まだ若い北村透谷、馬場孤蝶、星野天知、戸川秋骨島崎藤村青柳有美等が教壇に立っていた。彼ら以外にも大西祝(哲学)、元良勇次郎(心理学)、大和田建樹(国文学)、幸田延子(音楽)、津田梅子・若松賤子(英語)、荻野吟子(医学)等も教え、富井於菟・新井奥邃・島田三郎・植村正久・内村鑑三(生物学)が講師を勤めた時期もあった。

友子が誰に何を教わったかは伝わっていない。

教師の一人、元良勇次郎は、外山正一(元東大総長)、神田乃武(元一橋大教授)と共に、正則予備校(後に正則高等学校)を明治22年に設立しているが、僕はそこの卒業生。なにか不思議な縁を感じる。

明治22年(1889)1月31日に、友子は明治女学校を退校し、明治21年に創設された麻布永坂町一番地の香蘭女学校に入学する。

香蘭女学校は設立したばかりであり、友子は最初の入学生7人の一人となる。

明治23年(1890)、慎蔵は毛利元敏公の願いに応じ、3月に宮内省を退官し北白川宮能久親王の家令も退職して、元敏公に従い下関長府へ戻る準備を始め、年末には長府へ帰る。

慎蔵は、菅野覚兵衛とは明治になってからも交際を続けていたが、退官を祝って慎蔵宅に挨拶に来た時に、帰縣等の事を話したところ、覚兵衛より、友子が滞京するのであれば、万事自分が引受面倒をみさせていただきたいとの申出もあった。

しかし友子はそのまま、覚兵衛の家ではなく香蘭女学校の寮に入ることにし、学業を続けることになる。

その後も覚兵衛一家とは交流が続き、挨拶方々鶏卵を一箱持参したり、覚兵衛の大病を長府の慎蔵に知らせたりしている。

明治24年(1891)12月に、友子に縁談の話が興る。

相手は三田尻出身の山本玉樹で、郡役所にて収入課長をしていた。

二人は、乃木希典の幼馴染で親友の桂弥一の紹介で明治25年1月に婚儀がなり、友子が分家して山本玉樹を婿に迎える。

三吉玉樹は、このとき、のちに長門尊攘堂と万骨塔を建立する桂弥一と義兄弟となった。

また、玉樹は、明治28年には弥一の斡旋により、毛利元徳の六男徳敏が明治25年に襲爵した大村子爵家に家職として奉職する。玉樹はもともと大村益次郎の縁者・山本家と関わりがあった。

友子は結婚したときはまだ香蘭女学校に在学していた。

香蘭女学校の初代校長が発行した月刊雑誌「日曜叢誌」第31号(明治25年発行)によると、「香蘭女学校卒業式 五月十三日該校にては試業證書授与式を行ひたり今回卒業せられたる三好とも子は該校創立以来第一の卒業生なり」と記されている。

おそらく正規の卒業ではなく、結婚により、卒業を速めたものと思われる。いずれにしろ、香蘭女学校の最初の入学生であり、ただ一人の最初の卒業生であった。従って、兼高かおる黒柳徹子の先輩になる。

そして、友子は長府で玉樹と暮らし始めるが、足弱の病が高じて、明治32年(1899)10月に35歳で亡くなる。

友子は、三吉家の菩提寺日蓮宗法華寺に葬られる。

慎蔵は、2年後の明治34年2月16日に没するが、毛利元敏公の意向により、功山寺毛利家墓所横に墓地を賜り、埋葬される。友子もその時、法華寺から改葬され、慎蔵の隣に眠ることになった。従って墓石には妙法の文字がそのまま残っている。

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玉樹・友子夫妻は一人娘梅子を残した。友子が亡くなってちょうど1年後に分家は玉樹の希望で廃家とし玉樹は山本姓に戻る。この山本家は、玉樹が昭和10年7月に73歳で没した後は、山本家の養子になっていた梅子の子供が継いでいる。

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

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