今日は河島(旧姓三吉)梅子の祥月命日
昭和56年(1981)に86歳で亡くなっている。
『三吉慎蔵日記』の明治27年5月1日の条に、下関長府にて「トモ、女子出生」とある。
山口長府の江下で生まれている。
慎蔵の娘・トモは三吉家を分家し、乃木希典の幼馴染の桂弥一の紹介により、明治25年1月7日に山本玉樹を婿に迎える。
三田尻出身の山本玉樹は明治18年より村役場に出仕し、この時は郡役所の収入課長を務めていた。大村益次郎の跡をついだ山本軍三郎の縁戚となるらしい。
のちに長府功山寺に長門尊攘堂を建築しその横に万骨塔を建造する桂弥一は、1月7日の婚姻の際、縁を取りもったことから、三吉玉樹と義兄弟の約を結んでいる。
そして、明治27年5月1日に、三吉玉樹・トモ夫妻に女子が生まれ、5月7日の七夜命名として、慎蔵が梅子と名前を付けている。
明治28年6月4日に、父・三吉玉樹は長府を離れ、東京にて大村家に家職として出仕する。
明治30年8月中旬、母トモが発症し、23日には福岡の病院に入院する(入院したまま、2年後に亡くなっている)。
母が入院した時、梅子は満3歳なので、母トモの事は殆ど覚えていないに違いない。
父母がいないため、梅子は長府にて祖父母の慎蔵夫妻の手で養われることになる。慎蔵が亡くなる明治34年2月まで、『三吉慎蔵日記』には梅子の記述が多くなる。
特に多いのが、梅子は体が弱かったらしく、松岡医師(元藩医)による診察。
また、学校の行事、縁戚の法要、縁戚の棟上げなど、慎蔵が出かけるときに、梅子を連れて行く場面の記述も増えてくる。
明治34年2月に祖父慎蔵が死去したとき梅子は7歳、
明治44年1月に祖母イヨが亡くなった時は17歳なので、梅子から見ると、祖母イヨ、祖父慎蔵、母トモの順で記憶が確かなのではないかと思う。
そして明治44年に、家族で交流のあった乃木希典に引き取られ1年ほど養われるのだが、希典自刃後の、父玉樹との暮らしやその後の事は書いたものもなく詳しくは伝わっていない。
僕はこの祖母梅子と一緒に暮らしたのは3か月ほどで、しかも小学校1年の時。
今思えば僕が33歳のときまで矍鑠と生きていたので、先祖や長府での縁戚の事を聞いて置かなかったことが悔やまれて仕方がない。
もっとも、そんなことが気になりだしたのはここ15年ほどの事なのだが・・・・
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