中学時代の幕末史跡

東京・芝公園にある正則中学校に入学したのは、もう半世紀以上前の昭和35年(1960)。
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この頃、学校までの通学路や、下校時によく遊んだ場所には、今から考えると多くの史跡があった。 ただ、この頃は歴史には全く関心がなく、従って史跡については何にも覚えていないのだが・・・ 住んでいた家は、当時は全く意識していなかったが由緒ある場所にあった。 慶応4年に西郷と海舟は江戸開城をめぐって何度か会見したが、最後の会見場所と言われるのが田町の薩摩藩蔵屋敷。その蔵屋敷跡の真ん中が中学時代の住まいだった。 現在の三菱自動車本社ビル(当時は三菱重工自動車部)と隣の徳栄ビル(当時は倉庫会社)との間に、平屋建ての一軒屋があり、そこに小学校6年から中学3年までほぼ4年間暮らしていた。 その家は今はもちろん影も形もない。 中学校は、東京タワーのほぼ北東の、タワーが倒れたら先端が届く距離にあった。 右上端に学校の校庭が見える
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違った角度からの空撮 左下に学校の校庭が見える。上辺を横切っているのが日比谷通り。真ん中は増上寺境内。
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先日、同じ通学路を歩く機会があり、当時は関心がなかった史跡をめぐってみた。 通学路はいくつかのコースがあったが、主に家を出ると日比谷通りをまっすぐ北上し、増上寺山門を左に見て東京プリンスホテルを通り過ぎて西に折れる。これが一番わかりやすい。 通学路の間には、西郷南洲勝海舟会見の碑、薩摩藩上屋敷跡、東照宮、台徳院霊廟惣門、万延元年遣米使節記念碑、ペリー提督の像、増上寺山門、有章院霊廟二天門、御成門、安蓮社、松蓮社があり、そして中学校に至る。 最初の史跡は住んでいた場所そのものだが、家を出るとすぐに西郷南洲勝海舟会見の碑が建っている。
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昭和29年(1954)に薩摩藩蔵屋敷が在った場所に本芝町會が建立している。 建立時の写真はここhttp://www.honshiba.com/about/index.html ただ、この碑は現在は三菱自動車本社ビルの角にあるが、本来の建立予定地とは異なる。 当初、碑の建立は製紙会社の倉庫(現在の徳栄ビル)入口横に計画されていたが、そんな所に置かれてはトラックの出入りに邪魔なるとのオーナーの山田徳三氏の話を当時の三菱重工自動車部の庶務課長が聞きつけ、それでは此方に頂きましょうと言って50メートル以上移動させている。 結果的に重要な史跡碑を自分の敷地に招き入れたことになり、観光客の目を引くため、三菱に先見の明があるといっていいのだろう。 蔵屋敷の古写真
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日比谷通りをしばらく北上すると、松平修理大夫薩摩藩上屋敷跡のほぼ真ん中を通る。
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上屋敷は広大な敷地をもち、日比谷通りを挟んで西は桜田通りから東は将監橋通りまであり、港区芝2丁目~5丁目付近になる。今の建造物では、NEC本社のロケットビルがある場所などが含まれる。 この辺りは当時は倉庫が立ち並んでいて、遊び場の一つだった。 この藩邸に、慶応3年末、幕府軍庄内藩兵が焼き討ちをかけた事件が、戊辰戦争の発端になった。 幕末にはなかった芝園橋を渡ると、かっての増上寺の境内に入るが、今は芝公園になっている。 すぐに大イチョウが目に入ってくる。
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芝公園増上寺の周囲をぐるりと囲むように輪のような形をしている公園で、明治6年(1873)の太政官布告によって指定された日本で最初の5公園の一つになる。 大イチョウの先には、芝東照宮がある。ここもよく遊んだところだが・・・
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もともと家康を祀る増上寺内の社殿「安国院殿」があったが、明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。
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鳥居の額は、徳川宗家16代徳川家達の書
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この東照宮安国院殿の後ろに、2代将軍秀忠の奥院宝塔( ② )があったが、空襲により焼失している。
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芝東照宮のとなりは広い広場があり、東京タワーがよく見える。 東京タワーは遊び場の一つだった。 従って東京スカイツリーよりも愛着がある。
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完成は、昭和33年(1958)12月23日。当時小学校5年で川崎に住んでいたが見に行ったことがある。 1年半の工期で総工費28億円、鋼材4000トンを使い、高さ333mはパリのエッフェル塔324mをしのぎ、当時世界一を誇った。 広場の横に、増上寺に隣接するプリンスホテル敷地があり、そこに霊廟文化財台徳院(2代秀忠)霊廟惣門がある。惣門には吽形・阿形の金剛力士像が建っている。
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2代将軍秀忠の霊廟惣門( ① )
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増上寺の向かい側・芝公園の日比谷通り東側エリアに、万延元年遣米使節記念碑が建っている。
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ちょうど中学に入学した昭和35年(1960)に建立されたが、使節が米国に渡航して百年目にあたる。 当時もこの碑の側を歩いていたはずだが、自分の先祖のひとりが咸臨丸で渡航したとは、まだ考えてもいなかった。 おなじ芝公園の日比谷通り東側エリアに、万延元年遣米使節記念碑と向き合うように、ペリー提督の像がある。
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昭和28年(1953)に、日本開国百年記念祭を開催した際に、東京都がペリー提督の出身地であるロードアイランド州ニューポート市に石灯籠1基を贈ったが、その答礼としてこの像が芝公園に設置された。 通学では増上寺三門(三解脱門)の前を通った。
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増上寺には、神道を国教化するため神仏分離令が発令されたあと、明治元年から明治9年まで大教院が設置された。大教院は、神道の教義を僧侶に布教させるための養成学校だったが、増上寺の火災のため移転している。大本山増上寺史には、「三門の前には白木の大鳥居が建てられた。僧侶も神前に奉仕することを強いられ、増上寺の様相は一変した」などと記されている。 また、増上寺の堂宇伽藍は昭和20年(!945)の空襲によりほとんど焼失したが、この門は奇跡的に焼け残り 徳川時代初期の姿を今にとどめ、都内で最大の大きさを誇る。 三門を通り過ぎると、東京プリンスホテルの前を通る。 東京プリンスホテルは、かっての増上寺の北御霊屋(徳川将軍の墓所)の跡に造られた。 北御霊屋には、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂、和宮の墓と廟が建っていたが、戦災に遭い宝塔だけが残った。
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北御霊屋がかって存在した名残りは、ホテルの日比谷通りに面した場所に建つ有章院殿(七代家継公)霊廟二天門に見ることができる。
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かっては、御廟へは、この二天門を潜り、中門を通ると拝殿がありその後ろに本殿があった。さらにそのずーと奥に有章院殿御廟があり、宝塔が建っていた。 東京オリンピックに合わせて北御霊屋の敷地に東京プリンスホテルの建設が計画され、北御霊屋の墓所と宝塔は増上寺本堂の後ろにある徳川家廟に移されることになり、その際、戦災で焼失した2代秀忠の墓の移設も行われ、御霊屋として現在に至っている。
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ところで、14代将軍家茂とその妻・和宮の宝塔には大きな差がある。 明治時代に死去した和宮の宝塔は、幕府と朝廷との位の差別を明確にするためとの明治政府の意志により、家茂の石造りとは異なり青銅製で一回り大きく造られている。ただ、この格差を和宮が喜んでいるとは思われない。 右家茂、左和宮
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プリンスホテルを通りすぎると左へ曲がる。しばらくすると、御成門が建っている。
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この門は、将軍が増上寺に参詣する際の裏門で、今はプリンスホテルの北側にある。 かっては、御成門交差点にあったが、道路計画により現在地に移設された。
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真ん中下に、御成門旧地とあり、プリンスホテルの北側の位置に旧御成門とある。 路を渡ると安蓮社があるが、ここも増上寺の一院
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安蓮社には代々の増上寺和尚のお墓がある
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また、第二次長州征伐で戦死した幕府の陸海軍戦死者を供養するため、慶應3年建立された「海陸軍士戦死之墓」が堂々と建っている。
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書は、陸軍奉行並丹後守竹中源重固、裏には海舟の追悼文が刻まれている。 安蓮社の隣は、松蓮社 ここは、中学校への近道があったが今は柵で塞がれていた。
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松蓮社の裏側に正則中学校がある。(但し今は正則高等学校になっている) 正則中学校は、増上寺の瑞蓮院の跡に建っている。 明治34年増上寺全図には、右端中ほど少し上に「正則中學校」と見える
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明治2年増上寺山内の図、右端の上に、瑞蓮院とある
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明治新政府によって、徳川家菩提寺である増上寺の25万坪の敷地が今の5万坪に減らされていく過程で、取り上げられた土地の一部になる。 僕が通い始めたのは昭和35年(1960)4月からだが、この頃、増上寺の横では、1964年のオリンピックに向け、東京プリンスホテルが建設を始めていたと思う。 従って、その広大な敷地にあった代々の徳川将軍と奥方の宝塔は、増上寺の現在の徳川将軍家墓所に纏めて移された頃になるのだろう。 ただ、これらの事は最近知ったことであって、当時は全く、関心の外であった。 参考:大本山増上寺提供の「大日本東京芝三縁増上寺境内全図」
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