阪神淡路大震災の1/17に思う
28年前は奈良の榛原に住んでいた。
その15年ほど前に建てた2階建ての家の1階で寝ていた時に突然激しい揺れに襲われた。
とっさに隣に寝ていた嫁さんの上に覆いかぶさったのだが、このことは今でも嫁さんに感謝されている。
大阪から一歩西の、尼崎・西宮・神戸の状況はにわかには分からなかった。
何しろ被害状況の大きさがすぐには報道できなかったからだ。
しばらくたつと高速道路が倒れている映像や、所々から火災が発生している場面がTVで映し出される。
義姉の一人は震災被害の大きな神戸東灘区のマンションに暮らしていたが、倒れた家具の中から自力で這い出し公衆電話から8時ごろ「私生きているからね」と自宅にいる嫁さんに連絡が入った。
一般電話は不通で、いち早く公衆電話を利用できたのだが、後ろには多くの人が行列を作っていたという。
榛原に来るように話すと、2日後には避難してきた。
1か月ほど奈良にて避難生活を送った。
避難後はすぐに病院に診察に出かけたのだが肋骨を骨折しているのが判明した。
僕は毎週土日はガスボンベなど救援物資をもって東灘区の避難所に出かけた。
電車が動かないので、西宮北口からは歩きだ。
小学校などには避難者が多く詰めていた。
感心したのは、避難所などで采配するリーダが立ち上がっていたことだった。
そのリーダは静岡出身者が多かった。
そのため災害時に何をすればよいのか、小さいときから訓練されていたのだという。
他県からの公的な応援も徐々に集まってきたが、災害対応になっていないなと思ったこともあった。
被災地では水が重要だが、そのため多くの県の消防から配水車が派遣されている。
しかし水は自動車の後部に一カ所の大きなホース出口から配水され、受ける入れ物を持つ人が行列を作っている。
まだまだ災害派遣用の環境整備ができていないように感じたものだ。
この震災の時が、ボランティア元年と言われる。
被災地では当初は物資が常に不足していた。
各地の被災地は何を求めているのか。足りない物資、サービスは何か。
ボランティアはどこに何を持って行ったらよいのか。
この被災者とボランティアとの需給を明らかにしマッチングされるシステムを提供する企業が現れた。
本社が大阪市内のスターネットで、CS(クライアントーサーバー)システムの活用例の走りといってよいのだろう。
この企業が、インターネットを活用しHPとで被災地支援を行ったのはあまり知られていないと思われる。
とにもかくにも、今日は防災について改めて考えさせられる節目の日である。