ある碑が問いかけるもの

今から丁度2ヶ月前の2月20日に、防災の講演を拝聴した。

主催はある建物メンテナンス会社で、講師は防災システム研究所所長山村武彦氏。

講演の2日後にニュージランド地震、3週間後には東日本大震災が起きてしまった。

山村氏は相次いで発生した震災のため、以後TVなどに専門家として招かれることが多くなる。

90分間の講演の最後は、関東大震災にちなんだある碑についての話しで締めくくられた。

この碑にまつわる話は前に何かで読んだ記憶はあるが、改めて詳細にお聞きすることができた。

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大正12年(1923)9月1日(土)午前11時58分32秒、相模湾震源とするM7.9の地震が発生した。

東京だけでも当時の東京市の65%の土地、30万家屋が焼失した。

本所区被服廠跡、元陸軍の工場の跡地では4万人以上が死んだ。

人々は逃げまどい、持ち込んだ荷車に積んであった家財道具に火がついたといわれている。

9月1日、9月2日に東京は殆どの中心街が燃えてしまう

その中で、神田佐久間町の人達は逃げなかった。

初めは逃げようとしたが、当時の町のリーダである貴族院議員や町内会長が、この町の者は逃げてはいけない、と橋に立ちはだかった。

それを聞いて、町の人ははっとした。

この神田佐久間町と云うのは材木河岸といわれる。

隅田川を遡った材木が降ろされて、江戸中に広がっていく場所だった。

江戸時代の早い時期から商人や職人が集まる町で、「佐久間」の町名は、佐久間平八という材木商が住んでいたことから付けられたと伝わっている。

慶長年間(1596~1615)、江戸城築城のための材木を供給したのも佐久間町で、古くから幕府に仕えた町であるため、将軍家に祝い事があるときは町人たちにも能の見学が許されていた。

明治維新を迎え東京と名を変えても、神田佐久間町一丁目には数多くの材木問屋や薪炭業者が商いを続けていた。とくに幕末から明治にかけては活発な取引が行われ、この町における炭の相場の変動が、東京全体の炭の価格に影響していた。

材木問屋が並ぶため、たびたび火災を起こし江戸中を焼いてしまうことが何度もあった。

文政十二年(1829)には、神田だけでなく両国橋から築地、佃島、本白銀町あたりまでを焼き尽くした大火の火元ともなった。また、天保五年(1834)にも、江戸市中を焼いた火事が佐久間町から発生している。

だから江戸の人達からは、あそこには百万長者がいる、そんな風に言われていた。

そのため町の人たちは、この町から火を出してはいけない、として一生懸命火の用心をした。

だから逃げるなと言われた時はっとした。

桶やバケツを持って集まれの声で、老若男女が桶やバケツを持って集まった。

身体の不自由な人、子供、病人お年寄りを、神田佐久間町の真ん中にある佐久間小学校に避難させ、神田川を一部せきとめ、働ける人たちはみんな大きなバケツを持った。

                  佐久間小学校

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町の外は、9月1日、9月2日には火災が延焼拡大し、火災旋風が起こり全部燃えた。

1日の昼過ぎから、畳み一畳分の火の子がぱらぱら町の上に降ってくる。むしろや蒲団を濡らして必死の消火活動を一晩中行った。        バケツリレー

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9月2日の朝が明ける。今度は蔵前浅草から火がやってきて三方を取り囲むようにして火が燃える。すぐそばでは火災旋風が巻き起こる。それでも彼らは一生懸命火消しに走っていた。

しかし夕方になると皆疲れ果てて動けない人が続出した。

そんな時に恐れていたことが起こる。

皆を非難させていた佐久間小学校の木造二階建ての校舎の屋根に、終に火が付いてしまう。

「学校が燃えているぞう!」、それを聞いたとたん、町の人は、町の真ん中の密集地帯の学校が燃えたらもうこの町はおしまいだと思った。

上野の山へ逃げろ、風上に走れ、色んな声が響く。

皆がもうこの町はおしまいだ、と思ったとき、まるで奇跡のようなことが起こる。

それは小学校に避難してきた小学生が、学校を卒業した中学生が、学校が燃えているのを見聞きし続々と集まってきて、自分たちだけで列を作ってバケツリレーを始めたのだ。

周りからは、「学校は燃え出している。無理だからやめろ」の声。それでも一生懸命に消火をし続けた。向かいの教室に机や椅子を積み重ねて必死のバケツリレー。

風に煽られて、風速9mの火事場風が用捨なく子どもたちに襲う。

でも子どもたちの一生懸命さが、大人たちを動かす。

もう駄目だと思っていた大人たちも、子供たちがあれだけ頑張るのだからもう一度、といって隊列に加わっていく。最終的には二百人もの大人たちがその列に加わる。

多くの力が、苦戦はするが、数時間かけてこの小学校の火災をついに消し止めてしまう。

この頃になって火の風向きも変わり、火も下火になる。鎮火は午前2時だった。

立ち向かっていった人達は町とともに生き残った。

関東大震災の焼死地図をみると、焼死を表す赤で、真っ赤に大きく塗り潰された地図の中にこの一区画だけが白い。

現在、佐久間小学校は和泉小学校と名前を変えているが、その片隅に「防火守護地」の石碑が立っている。

碑には、

「この付近一帯は大正12年9月1日、関東大震災のとき、

 周囲を猛火に包まれながら町の人々が一致協力して

 出火を消し止めこの町を守り抜きました」とある。

関東大震災の後、新聞には関東大震災の奇跡と書かれた。

しかし、この碑が教えてくれているのは、

非条理な災害に対して、災害なんかで死んではいけない。

そしてただ逃げたり諦めたり怖がったりするだけではなくて、

準備をして、災害を迎え撃つという勇気が必要なのではないか

ということだと思う。

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