長門萩藩主・毛利家より
大村益次郎家に伝わった
雛人形と雛道具を展示している。未見なので、今週拝見してくるつもり。
雛祭りの成立について、案内文で以下の記述がある。
3月3日にお雛様を飾り、子供の息災を願う慣わしは、
平安時代の子供の人形遊び「ひいな遊び」と、3月の上巳の日に、禍(わざわい)や穢れ(けがれ)を人形に移して水に流す「上巳の祓え(じょ
うしのはらえ)」の風習が結びついたもので、
室町時代に始まりました。江戸中期以降には、
雛人形と雛道具を飾り、「雛祭」の行事になりました。
歴博 第128号 歴史の証言 「
和宮ゆかりの雛と人形」では、
上巳(じょうし)(3月3日節)に雛祭りを行うようになったのは、江戸時代以降のことである。文献では『お湯殿の上の日記』1625(
寛永2)年3月4日条が初見となり、主催者は後水尾(ごみずのお)
天皇の
中宮・
東福門院和子(とうふくもんいんかずこ)であった。1640年代にもなると一般に広まり定着をみせたが、「雛祭り」という言葉が確認されるのは18世紀初頭からであり、それまでは「雛あそび」と呼ばれている。
大村益次郎の功罪については別の機会に譲りたい。