谷崎潤一郎の春琴抄を読むと、その時代背景の描き方が気になる。
春琴が生きた時代と場所は、江戸時代末期から明治にかけての幕末を含む大坂だった。
春琴は、大坂道修町の業種商の次女として、文政12年(1830)5月24日に生まれ、明治19年(1886)10月14日に脚気が原因で58歳で死亡する。
盲目となった春琴の身の回りの世話を献身的に行ったのが佐助で、春琴よりも四つ年上の文政8年(1826)生まれ。春琴の死去のあと21年生き、明治40年(1907)に春琴と同じ10月14日に83歳で亡くなる。
佐助が春琴の家に奉公に来たのは、春琴が9歳(文政21年、1839)で失明したあとの、佐助13歳の時だった。従って綺麗な目をした春琴の姿は見ていない。
春琴は三味線が上手く生田流の琴の名手でもあったが、盲目でも美貌であった。
その春琴が何者かに顔に熱湯を浴びせられ、その姿を見まいとして佐助が自分で針で目をついたのは、佐助41歳の時なので、事件の起きたのは慶應3年(1867)の時になる。
この犯人は誰なのか?
谷崎は黙して語らない。読者の推理に任せたままだ。
春琴と佐助の間には、三人の男の子と一人の女の子がいた。春琴も佐助も子には全く未練がなく自分たちで育てることはない。
このうち、女の子は分娩後にすぐ死んでしまう。
この春琴の物語を語っているのは、明治7年(1874)に12歳で春琴の内弟子になる「てる女」だが、この時春琴は46歳。
語っているのは大正8年、てる女71歳の時。
おそらく、てる女はすぐ亡くなったはずの二人の間の子に違いない。
いずれにしろ物語は、江戸幕府の頃から新しい明治になった時代の物語だ。
世の中は、大塩平八郎の乱が天保8年(1837)2月に起き、大坂の1/5が灰になり、焼失家屋が3,000軒以上あった。春琴の居る道修町も災禍に遭っているはず。
また鳥羽伏見の後も大坂は変動があるが、谷崎は全く描かない。
そこが面白いところでもある。
参考:『春琴抄』谷崎潤一郎
「谷崎潤一郎 春琴抄」箕野聡子
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