昨年、東京製綱所の創業時代の史料を、東京製綱所に譲渡した。
該社からは、当社にもない貴重なもの、と感謝される。
小杉家の資料を整理していて、ある図面と定款を見つけた。
図面には東京製綱株式会社小倉分工場と判があり、定款には「浅野小倉製鋼所定款」との表紙がある。
図面は、「Wall box & shafts」と記され、ワイヤロープ製品のサンプルを展示するための入れ物の図面で、定款は、東京製綱の後の小倉工場の定款らしい。
定款には、発起人として、山田昌邦、赤松範一の名がみえる。
山田昌邦は、『逃げる旗本』の主人公だ。
慶應4年8月、榎本武揚率いる艦隊は蝦夷地をめざし品川沖を脱出する。
その時,小杉雅之進は機関長として旗艦・開陽丸に乗り、開陽丸に二本のロープで曳航されていた美嘉保丸に山田昌邦(当時は清五郎)が乗っていた。雅之進は26才、清五郎は21才だった。
美嘉保丸は、暴風雨に巻きこまれて曳航索が切きれ、マスト2本も折れて航行不能となり、銚子の犬吠埼近くの黒生海岸へ漂着し座礁して沈没した。
このとき乗っていた将兵600余名の大方は、地元漁民の救助によって助かったが、生存者は土浦方面と江戸へ向かう者に分かれた。ただ新政府軍の追撃は厳しく、多くは投降する。但し遊撃隊の伊庭八郎ら一部は逃走に成功し、榎本艦隊への再合流を果たしている。
美嘉保丸の遭難について、『旧幕府』に山田昌邦本人の談話を記者が記事にしたものが載っている。 第四号「三嘉保丸の難破談 函館始末其二」、第六号「美嘉保異聞」の二つの記事。
難破してから江戸の深川高橋御徒士組屋敷に帰るまでが詳細に語られ、自首して牢に入り、後に赦免されたと明記している。
このとき、山田昌邦は、ロープの重要性に気付き、のちにロープの製造メーカの東京製綱を創設する。
そして、小杉雅之進の養子・辰三に山田昌邦の長女光子が入嫁しているが、この縁談はおそらく、雅之進と昌邦とが同じ幕府海軍の士官であったことが縁となっている。
赤松範一は、元幕臣赤松則良(赤松大三郎)の長男で、小杉雅之進と赤松大三郎とは長崎海軍伝習所では同期の三回生だった。
いずれも、幕府海軍の不思議な縁と云ってよいのだろう。
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