今日では、徳川幕府が派遣した遣米使節の写真は、日本にもあり在米日本大使館にも備えている。
しかし、明治の半ば以前は、この写真を誰も知るものはなかった。
この写真が世に知れたのには、小栗上野介の親族が大きく寄与している。
小栗家の養嗣子小栗貞雄は、明治22年(1889年)欧米遊学からの帰途に米国ワシントンのある写真屋に寄り、「当時の写真はありませんか」と尋ねた。
店の老人が古い種板の中から写真原板を探し出して、貞雄に示した。
貞雄は、写真に写る人物が誰なのかは知らなかったが、新たに写し取らせて日本に持ち帰った。
小栗上野介の妻道子の実妹や親族に見せて初めて、中央の椅子に座って並んでいる人物が新見、村垣の正副使であり、小栗上野介であるのを知り得たのであった。
このようにして、日本に小栗上野介の容貌風采が知れることとなった。
また小栗上野介の甥(妻の妹の子)蜷川新は、大正3年(1914年)に学術研究のためにしばらく米国に居た折に、当時の日本大使館を訪ね、大使に遣米使節の写真を保存しているか尋ねた。
大使は「岩倉公一行の写真はあるが幕府より派遣された遣米使節の写真については何も知らない」と答えた。
しかし間もなく古写真も事務室に掲げるようになった。
このことから、蜷川新は、現在の政権交代前後の日本外交にも通じる言葉を綴る。
「蓋し明治時代の御役人なるものは、明治以後の事のみを尊重して、七百年来の国家の正当の制度たる旧幕府時代の事柄を軽視するの風ありて、斯かる我が外交史上重要の写真をも、恰も他国人の写真でもあるかの如くに軽視して、目に留めざるものなるかを推察し得た。
維新の前と後とに由って、日本と云ふ古き国家を、日本人として軽重するのは、正しい国民観念とは云い得ない。役人のみならず明治以後の日本人に、この欠点多きは、矯正せざる可からざる所である。」
参考:蜷川新著「維新前後の政争と小栗上野の死」
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