龍馬祭と講演会

11/15、久し振りに霊山へ出かけた。
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霊山へ行くために例年と同じく、慶応3年11月17日夜に龍馬と慎太郎、籐吉が葬られる時に通った霊明社への道、葬送の道を登った。いつものようにこの道には誰もいない。
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今年は変わったことがあった。道の途中に、10月に碑が建てられていた。 この碑は、似たような一連の今までの碑と違い、史実に正確で間違いはない。
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今年の11/15は平日でもあり、人出は昨年よりも少ない。 もっとも、比較する時間帯が昨年午前と今年午後なので、正確かどうかは分からない。 人出については、高知県人会が例年振舞うシャモ鍋の数の比較がよいかもしれない。しかし、今年は滞在時間が長かったためもあり、小生一人で昼飯代わりに結局3杯も食べてしまった。 正確さを競うのであれば、本来無料であるべき護国神社の入場料で比較すべきなのだろう。 13時からは、お目当ての霊山歴史館での記念講演会と対談を拝聴してきた。 講演が始まる前に、「龍馬伝」サミットに参加する下関市副市長、長府博物館古城学芸員など、下関市の方々と偶然にお会いした。この縁で、講演拝聴後、サミットにも途中から参加させていただいた。
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また事前に、講演者の豊田学芸員に3年前に中岡慎太郎館を案内頂いたお礼の挨拶をしたが、龍馬会の事務局長と高校が同窓だということを教えていただき、改めて世間が狭いのに驚いた。 講演と対談の会場はほぼ満員状態になっていた。
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一部:「龍馬殉難」霊山歴史館:木村幸比古学芸課長の講演 二部:「龍馬暗殺の諸説」豊田学芸員と木村学芸課長の対談 一部の講演は、よく知られている暗殺の諸説をあらためて解説する内容で特に新奇性はない。 二部の豊田学芸員の話は通説とは異なる内容でもあり、小生には教えられることが多々あった。
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話は、中岡慎太郎の龍馬暗殺犯人説についての疑義から始まった。慎太郎についての豊田氏の意見が良く分かるので、以下、長くなるが記録として記しておく。 慎太郎犯人説は、龍馬の大政奉還・平和倒幕路線、慎太郎の武力行使による倒幕路線という図式が前提になっている。しかしこの前提は史実とは異なる。慎太郎は、本来は単純な武闘派ではない。 慶応3年7月大監察本山只一郎宛ての手紙には、 「世間では、武力倒幕に向けて今か今かと待っている状態だが、土佐がのこのこ京都に出て行ってもさして役に立たないから今は出ない方が良い。」と書いてある。 通説的解釈のように、慎太郎は薩摩と組んで戦争でつぶすので、龍馬の意見に乗って平和倒幕を考えている容堂がのこのこ出て行っても邪魔なだけだ、と把えられないわけではない。 しかし、慶応3年7月の状況は、前月6月に、薩摩と土佐が大政奉還を実行するために協力し合う薩土盟約を結んだばかりであり、また7月はイカルス号事件の処理ででてんてこ舞い状態であるから、土佐藩大政奉還以前の問題でごたごたしていた時期になる。 対する世間の浪士たちは、戦争で今の事態を打開したいと過激な意見を唱える者が多く情報が錯綜していた状況であった。流言飛語に惑わされて京都の情報をどこまで正確に把握しているか分からない土佐藩がのこのこ出て行っても、却ってそういう情報に惑わされて、間違った方向に行ってしまう危険性がある。 薩摩藩でも、この時イカルス号事件もあったし、国元でも兵隊を出すことに反対する意見も多かった。 長州藩も出兵の準備が全然整っていない状態であった。 事態の推移を静観すべき時に、兵隊を出したり何も戦略を立てずに出て行っても結局危ない方向へ行くだけなので、慎太郎としては、こういう状態だから今はとにかくがたがた言わずに落ち着いて土佐で待っていなさい、というのが7月の手紙の内容。 また慎太郎が武力倒幕派ではないのは、慶応3年10月の本山只一郎宛ての手紙でも分かる。 「世間では倒幕戦争が始まると指折り数えている連中が多いが、よほど聖人君子かカリスマ性のある人間でないとできない。むしろ、大名達が連合して大政奉還を積極的に推し進め、堂々の正論をぶっつけて、そこから慶喜に引退を迫る方がよっぽど現実的だ」と書く。 慎太郎は、 戦争はよほどの覚悟を持って臨まなければいけない。今までお上意識に260年間慣れ親しんでいた庶民が目を覚まして皆が政治に何らかの形で関わる新体制国家を作るためには、よほど強い覚悟がいる。そういう意識を持たせるために意図的に倒幕とか戦争とか言っているのであって、戦争だけで世の中を変えると言っている訳ではない。 そうでなければ、慶応2年11月の「時勢論」で、龍馬よりも半年前に大政奉還を唱えて、 「しかるべき大名が徳川に説得して、そろそろ大政奉還を実行するようにする必要がある」と述べたりはしない。ここでは、ひそかに土佐の同志を介し徳川慶喜に近い容堂を通じて説得工作を仕掛けようとした向きもある。 しかも、慶応3年4月から5月の四侯会議で、薩摩、土佐、越前、宇和島の四つの藩が連合して、事実上徳川幕府という制度をなくした大名連合会議という制度の制定を大久保利通が中心になって画策するが、慎太郎も積極的に関わっている(行々筆記)。 慎太郎は、四侯会議で西郷・大久保が走り回っている状況は逐一彼らからキャッチして、薩摩はこういう形で政権交代を図っている、それに向けて長州藩の罪を帳消しにするために薩摩は全面的に頑張っている、薩長連合で言っている内容は実行に移しつつあるので安心して下さいと、ちゃんと長州に報告している。 慶応3年の時点から、諸侯会議による政権交代、更には大政奉還が行われた10月時点においても、土佐に対しては本山に宛てて、大名と連携した政権交代が建設的であるからこの方法を真剣に考えるべきだ、と説得する手紙を出している。 以上のことから、慎太郎が龍馬暗殺犯というのは、どう考えてもナンセンスとしか言い様がない。 龍馬が平和倒幕派(平和路線派)、慎太郎が武力倒幕派という図式が前提になっているが、史実に照らすと全く違ったものになる。慎太郎は武力倒幕派ではない。 龍馬は、 土佐にミニエ銃を持って行くが、いざという時に戦争に土佐も乗り遅れないための準備をしている。 龍馬も慶応3年4月に慎太郎の紹介で岩倉に会っているが、岩倉と慎太郎からの説得で、鳥羽伏見の戦い位の戦争が想定できるようになったので、どちらに転んでもよいように準備をした。 徳川幕府を倒すためには、大義名分がいるので、まずは正論でもって、来るべき政府を担う大名達が一致団結して、一つの考えの下に行動して徳川に対して政権交代を促す。それが駄目であったらそこで初めて徳川を潰すべきだ。これが龍馬や慎太郎達の考え。 これをじっくり注視してみないと、幕末史が相変わらず難しくてよく分からないというままで、しかも犯人は誰かという推理小説のファン遊びで終わってしまうような気がしている。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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