日米修好通商条約関連と幕末史跡めぐり

先日、咸臨丸フェスティバルが横須賀浦賀で開催された。 毎年開かれているのだが、僕は今年初めて参加した。 その前日に、咸臨丸がそもそもサンフランシスコまで北太平洋を横断することになった原因である、日米修好通商条約関係の東京史跡巡りをすることにした。 コースは、光林寺 --> 善福寺 --> 中之橋 --> 赤羽接遇所跡 --> 芝公園 まずは条約締結交渉の立役者でもあったヒュースケンのお墓のある光林に参る。
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ヘンリー・ヒュースケンは、正義感と善意に溢れた、闊達な青年であったらしい。 オランダ人だが、移住先のアメリカで、英語とオランダ語のできる通訳を求めていたハリスに見いだされ、初代アメリカ総領事のハリスとともに安政3年(1856)に来日する。 そして、ハリスの秘書兼通訳として日米修好通商条約締結交渉に活躍した。 アメリカの後を追って、条約を結びに来る欧州各国の使節団対しても、ヒュースケンは先達の役割を果たした。 プロシア使節団員とは特に親しくなり、毎日のように宿舎の赤羽根接遇所を訪れては夜更けに米国公使館があった善福寺に帰ることが続いた。 そして当時活発になっていた攘夷派のテロ活動の格好の目標となり、芝薪河岸の中之橋付近で薩摩藩士に襲われ、翌日死去した。万延元年12月5日(1861年1月15日)。享年28歳。
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このお墓には、事件の4年後に、日本に観光で訪れていたトロイ発掘で有名なシュリーマンも墓参りをしている。 なお、お墓の両側に植わっていたヒバの樹は立ち枯れたため、最近伐採された。 この光林寺には、幕末からみでは、何人かのお墓がある。 ヒュースケンのお墓の正面やや斜めに、伝吉のお墓がある。
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伝吉は、イギリス公使オールコック付きの日本人通訳だったが、安政7年1月7日(1860)に攘夷志士に東禅寺門前で襲われ死亡した。 もともとは紀州の船乗りであったが、遭難し米人に救助されたあと、ハワイ、中国、琉球アメリカを彷徨って、再び中国へ渡り、そこでイギリス公使オールコック通訳としてイギリス国籍を取得し、日本へ戻った。 素行に問題があり、女衒紛いの事をして恨みを買っていたため、帰国して僅か7ヵ月程で切り殺される。 菅野覚兵衛夫妻
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光林寺では是非お参りしたいと思っていたお墓。 坂本龍馬が暗殺された後、盟友の三吉慎蔵は龍馬からの何かあった場合の後事依頼により、お龍とその妹君江を長府で預かる。その君江は龍馬の生前の希望により、しばらくして覚兵衛の妻となる。 そして明治期にも東京に移り住んだ慎蔵と覚兵衛夫妻は交流が続く。 ところが、お龍は近くに住んでいるのに困窮のときにも慎蔵に連絡を取った形跡がない。 慎蔵の長男米熊が明治25年に結婚する際には覚兵衛夫妻を招待しているのだが、なぜかお龍は呼ばれていない。 今このことを調べたいと思っている。 菅野覚兵衛は、勝海舟に弟子入り、勝海軍塾、亀山社中海援隊と、常に龍馬と行動を共にする。 維新後は、米国に留学のあと海軍に入るが海軍少佐で退官し、龍馬と抱いた北地開拓の実現のため福島県郡山市の安積原野に入植し開拓事業に参加する。 左面に「天保十三年十一月二十三日生 明治二十六年五月三十日卒 享年五十二」 右面に「高知縣土佐國安藝郡和食村士族 有故転籍福島縣」 菅野覚兵衛妻 起美は、楢崎将作の末娘で君江ともいう。お龍の妹。 右面に「義光院泰操貞心大姉 昭和九年九月二十日没」 左面に「昭和十三年三月建之 和智初児、石丸都技」 丸亀京極氏 最近、塩飽がらみで毎年のように丸亀と多度津を訪ねている。 丸亀藩は、戊辰の役では、鳥羽伏見で幕軍についた高松藩征討に出兵した。
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多度津京極氏 戊辰の役では、丸亀藩と同じく高松征討に出兵した。
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古川庄八と、御子孫のお墓 古川庄八は日本初の海軍留学生として榎本武揚らとオランダに留学。 戊辰戦争での開陽丸品川脱走の際は水夫頭を勤める。
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古河市兵衛 右端が、市兵衛の墓。古河財閥の創業者。 陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。
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平井希昌 幕末に長崎奉行所で通詞として活躍し、維新後は外交を勤める。 中国語、英語、フランス語によく通じ、江戸幕府のもとで通詞の最高位に就き、明治政府では長崎裁判所の外務裁判長などを歴任した。
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岩村定高 佐賀藩士 初代三重県
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光林寺を後にして、幕末にアメリカ公使館が置かれた善福寺に向かう。 途中南部坂を横に見て、盛岡城主南部家の屋敷であった有栖川宮記念公園の中を通る。
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有栖川宮熾仁親王
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仙台坂を降り切って、道を曲がると、そこは善福寺の入り口。
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境内には、「ハリス記念碑」が最初のアメリカ公使宿館跡の場に建っている。
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安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約によって、下田にいたハリスは総領事から公使に昇格し、翌年善福寺をアメリカ公使館とし、8月に赴任した。 明治8年(1875)に築地の外国人居留地へ移転するまで、公使館として使われる。 また、ここ善福寺には、軍艦奉行木村摂津守の従者として咸臨丸で渡米した福沢諭吉と家族のお墓もある。
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この善福寺から、赤羽橋にあった赤羽接遇所まで、ヒュースケンが馬に乗って通ったであろう道を辿ってみた。 道は大きく二つあって、川堀の北側を通る道と、一ノ橋を渡って川堀の南側を通り、川堀を再度中之橋で渡る道である。一之橋を見たくて後者の道を歩くことにした。 一之橋 清川八郎が佐々木只三郎など七名の刺客団 ( 一説に六人とも ) によって暗殺された場所。
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八朗は、川堀の西側にある上山藩邸を出てから、川堀沿い北に歩き、川堀が東に直角に曲がる手前にかかる一之橋を渡って、一間ほどの所で只三郎に声を掛けられる。丁寧に頭を下げる只三郎に応じて笠をとるため笠の紐に手をやった瞬間、清河の背後で身構えていた速見又四郎に斬りつけられる。享年三十四歳。  それから川堀を左に見ながらにそのまま直進し、300mほどで中之橋のたもとに至った。
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このあたりが、清河八朗が襲撃される3年前の万延元年(1860)12月5日、虎尾の会メンバの益満新八郎 、伊牟田尚平、桶渡八兵衛、神田橋直助らにヒュースケンが襲撃された場所。 中之橋にて北に川堀を渡り、右方向に行くと、安政6年に外国人のために宿舎兼応接所として設けられた赤羽接遇所の跡がある。今は板倉公園になっている。、 ヒュースケンはここから、善福寺へ戻る途中で、護衛が3人付いていたにもかかわらず襲われ、翌日死去したのだった。
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赤羽接遇所からは、芝公園にある東照宮に寄り、
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そして最後にペリー提督の像と、遣米使節百年で建立された記念碑を拝見した。
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