京都での歴史探訪 その2 大政奉還の二条城

京都史跡めぐり 2日目のコースは、二条城 ---> 京都御所  --> 伏見寺田屋 ~薩摩屋敷で、 午前は、大政奉還の行われた二条城を見学する。
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二条城は、初めて訪れたのだが、現在は平成23年から20年の歳月をかけて本格的な修理を行っている最中。それでも、150年前に大政奉還が行われた節目の年でもあり、見学者が多い。 また世界遺産に登録されて、観光コースになっているからか、特に外国の旅行客がよく目につく。 この城は数奇な歴史をもっている。 初代家康、二代秀忠、三代家光、そして最後の将軍慶喜が、将軍宣下を受けた場所なので、徳川幕府の最初と最後をみているわけだ。 歴史は簡単には、 〇1600年、家康は、天下分目の戦い・関ケ原で勝利したあと、 〇1602年、①朝廷との融合・融和を図る ②儀式の舞台とする、との目的で、二条城 (二の丸御殿)の造営に着手する。 〇1603年、二の丸御殿が完成する。 将軍宣下を受け、二条城から拝賀の礼をおこなうため御所に赴き、しばらくしてから、二条城にて天皇の勅使、公家、諸侯と将軍就任の祝賀の儀を行う。       のちに同じように、二代目秀忠、三代目家光も将軍就任の手順として将軍就任の儀式を二条城にて行う。 〇1619年、秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。 〇1624年、家光は、後水尾天皇行幸に向けて二条城の大改築を開始する、  城域は西へ拡張され、天守も西に位置を変え、伏見城天守を移築する。二の丸御殿を改築し、また城としての機能を持つ本丸を造る。
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      本丸
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      二の丸 
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                     〇1626年、後水尾天皇行幸する。 このときに建造された行幸御殿は、のちに上皇となった後水尾院の御所に移築し、他の多くの建物も解体・撤去される。  たとえば、三笠閣は、1623年に家光の命により佐久間実勝が二条城内に建築したが、のちに家光の乳母の春日局に下賜され、春日局の孫の稲葉正則によって江戸屋敷に移築される。 1881年に、二条基弘に譲渡され、邸内に移築される。 さらに、古美術を収集し、各地の古建築を購入して庭園の整備を進めていた実業家の原富太郎(原三溪)が、1922年に三溪園に移築している。
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〇1634年、秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入場する。 〇1862年十四代家茂の上洛に備え荒れ果てていた二条城の改修が行われる。 〇1863年、家光上洛以来230年ぶりに、将軍として家茂が上洛する、 〇1864年、家茂再度上洛する。 〇1865年、家茂三度目上洛するも、翌1866年大坂城にて死去する。 〇1866年、慶喜十五代将軍拝命の宣旨を受ける。 そして、 〇1867年、二条城にて慶喜による大政奉還が行われる。     大政奉還の具体的な流れは以下の通り 〇慶應3年10月3日(1867年10月29日)に、土佐藩大政奉還・建白書を藩主・山内豊範を通じ単独で将軍・徳川慶喜に提出した。
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〇10月11日(1867年11月6日)、幕府大目付から10万石以上の在京大名家に、「国家の大事について見込みお尋ねの儀あり、10月13日正午に二条城に出頭するように」との、廻状が下される。 〇10月12日(1867年11月7日)、慶喜は、黒書院にて在京の幕臣に政権返上を表明する。
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   「大政奉還図」 聖徳記念絵画館の壁画。邨田丹陵筆 〇そして、翌10月13日には、10万石以上の大名42家の重臣または京都の留守居役50名が、二条城大広間に集まる。
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ただし、上の写真は、現在の二条城大広間に置かれた人形だが、大政奉還のときすると、実際にはこの場面では慶喜は出座していない。また大名家の重臣または京都留守居役の服装は間違いで、正しくは以下の直垂が正しい。
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慶喜は出座してはおらず、老中板倉伊賀守勝清が、政権返上について50名に公表する。
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「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」などと説明した。 3通の詳細は不明だが、1通は大政奉還の上表文の草案で、この場に居合わせた新発田藩溝口家留守居役の寺田喜三郎は「従来之旧習を改め、政権を朝廷に帰し」などの意向が記されている草案を筆写した。
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   「寺田家文書」(佛教大学図書館所蔵) 我 皇国時運之改革ヲ観ルニ、昔、 王綱、紐ヲ解テ、相家、権ヲ執リ、保平之乱、政権武門ニ移テヨリ、我カ祖宗ニ至リ、更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、我、其職ヲ奉スト雖モ、政刑当ヲ失フ不少、今日之形勢ニ至リ候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候、況ヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈 朝権一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ、広ク天下之公儀ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト可並立候、我、国家ニ所尽、是ニ不過奉存候、・・・・・・ 十月 私は、 皇国の時運の沿革を考えるに、かつて、朝廷の権力が衰え相家(藤原氏)が政権を執り、保平の乱(保元の乱平治の乱)で政権が武家に移ってから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできた。そして私がその職を奉じてきたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致すところ、慙愧に堪えない次第である。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければもはや国の根本が成り立たないので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷にお返し、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来る。私が国家に貢献できることは、これに尽きると考えている云々 十月 公表後、将軍慶喜に見込み(意見)を申し上げたい者は居残るようにとの指示がある。 新発田藩溝口家留守居役の寺田喜三郎の文書によると、居残ったのは、薩摩(島津家)・土佐(山内家)・芸州広島(浅野家)、伊予宇和島(伊達家)、備前岡山(池田家)の5藩、6名(土佐2名)。 そして居残った者に対し、慶喜が出座し対面する。 以下の画は、まず最初に、薩摩の小松帯刀、芸州の辻将曹、土佐の後藤象二郎と福岡藤次の4名が一緒に慶喜と対面し、政権の即時返上を勧める場面。慶喜宇和島の都筑荘蔵、備前の牧野権六郎の2名を召見した絵は何故か描かれていない。
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この場合の「政権」とは、現在の政権とは異なり、「領地宛行権(りょうちあてがいけん)」の謂い。 徳川時代、将軍は代変わりの都度、諸大名に対して、その領分と石高を保証する書面を発給し、将軍と諸大名との主従関係を確認してきた。 大政奉還の上表文の草案にみえる「政権を朝廷に帰す」とは、その発給権を天皇に委譲し、将軍と諸大名との主従関係は解消することを意味している。 〇慶喜は伝達の翌14日に上表文を朝廷に提出し、15日にいわゆる「大政奉還」が許可された。 参考: ●青山忠正氏「大政奉還」(2017/12/22仏教大学四条センター講演) ●Wikipedia 大政奉還 ●yubarimeronの気ままな歴史散歩さん始め、様々なHPから図・写真拝借 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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