文楽の名のもとになった植村文楽軒(本名:正井嘉兵衛)が経営した最初の芝居小屋と、二番目の小屋の跡を訪ねた。
文楽軒は、寛政(1789-1800)の頃、大坂に出て高津橋南詰西の浜側に浄瑠璃稽古場を開く。
この高津橋は、江戸中期、西高津新地の開発に伴って 道頓堀から開墾された高津入堀川にかかる橋だ(『浪華名所獨案内』より、高津付近)。
神津入堀川に架かる橋は、道頓堀から、清津橋、吉田橋、末広橋と続き、東に直角に曲がってすぐの橋が高津橋で、その高津橋の南詰の西側に浄瑠璃稽古場が開かれた (『天保新改攝州大阪全圖』(天保8年発行)より、高津付近)。右下の二重丸の場所が稽古場簿場所で、「文」と記された位置に現在の国立文楽劇場がある。
文楽軒は、稽古場の場所に、文化2年(1805)頃、私財を投げ打って「高津新地の席」という人形浄瑠璃の小屋を開く。これがのちの文楽座のはじまりとなる。
その植村文楽軒が開いた最初の芝居小屋のあった辺りを訪ねるため、道頓堀から高津入堀川沿いを歩いてみた。
入堀川は、今の国立文楽劇場の通り一つ西側を南北に流れていた。戦後の書言うわ30年代に完全に埋め立てられている。ここに川があったとはまず気が付かない。
まず、道頓堀川の関門を起点に、入堀川を埋め立てた道路に沿って歩いてみた。
昔の地図通りに、通りは入堀川そのままで、そしてかっての神津橋の南詰西にはコインランドリーがある。
この場所こそ、芝居小屋があった場所だった。いわば文楽発祥と地といってもよい。
文楽軒は、文化6年(1809)に、当時、大坂の中心部の四ツ橋の近くの北堀江に小屋を移す。
「北堀江の市之側」は賑やかで、芝居小屋が集まっていた。
「北堀江」という場所は、長堀川(東西)と西横堀川(南北)交差する地点(四ツ橋)からみて南西側の地域になる。
南北に流れる西横堀川の東側に、「イナリ社」が描かれているが、「イナリ社」は博労町稲荷社のことで、のちに二代目文楽軒が芝居小屋を開いている。(『浪華名所独案内』より、四橋付近)。
この「市之側」 は、長堀川の宇和島橋(四ツ橋のひとつ吉野屋橋を西へ次の橋)の南詰から南に走る筋にある。二通り目と三通り目の間に「シバイ」と記されているのが芝居小屋があった場所(『天保新改攝州大阪全圖』より、四ツ橋付近)。
現在の地図になぞえてみると以下の通り
四ツ橋を起点に、訪ねてみると、
通りの正面突き当りが芝居小屋のあった場所
「シバイ」小屋のあった場所は、現在の「味吉兆」(工事中)とその右隣のビルとそれぞれの奥一帯がその場所と分かる。
ちなみに、文楽軒は、北堀江に小屋を移したその翌文化7年7月9日(1810年8月8日)に死去している。60歳。大阪の円成院(遊行寺)に葬られる。
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