乃木家と三吉家

昨日は驚くことがあった。社内に遠い縁由がいたのだ。20数年間気が付かなかった。 山口の長府で、乃木家と小坂家(慎蔵は後に三吉家の養子になる)は隣近所であり、代々仲がよく、家族ぐるみの付き合いをしていた。 幕末時は、乃木希典の父希次が慎蔵を、後には慎蔵が希典を教導していたという。 乃木希典には、長男勝典、次男保典の他に長女と三男の4人の子がいたが、長女と三男は早世した。 日露戦争中、勝典は、明治37年(1904年)5月27日、金州南山で銃弾に撃たれて戦死し、また保典は、同年11月30日、203高地で砲弾により戦死した。これにより、乃木夫妻には子がいなくなった。 三吉慎蔵には、長男米熊と次女友子がいた。長女は早世している。 米熊は万延元年(1860年)に生まれ、駒場農学校に入学、明治14年(1881年)に卒業後、長野県で奉職する。 希典は幼少時、慎蔵の許で教えを受け昔話を聞いたり世話になったが、米熊も希典と親しく交わり上京の折は赤坂の乃木邸を訪ね、時には宿泊していた。 友子は慶応元年(1865年)に生まれた。香蘭女学校卒業後、来日する外交官夫人の通訳に従事する。山本家より玉樹が婿入りし分家を構成する。 三吉玉樹は、この婿入りを世話し後に「長門尊攘堂」を建てた桂弥一と、兄弟の義を結んでいる。 明治32年(1899年)友子は病で、明治34年慎蔵は長府で相次ぎ死去する。友子の婿玉樹は実家に戻った。 明治44年(1911年)1月14日慎蔵妻イヨが長府で死去し、翌日15日米熊妻タキが信州上田で亡くなる。ここで米熊は家屋敷を整理し、活動拠点の上田へと長府を引き払う決意をする。 この時友子の一人娘梅子は16歳で、両親がいないため、乃木希典に引き取られ養育される。 住まいは、東京府赤坂区新坂町で、今の赤坂乃木坂の乃木邸であった。
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大正元年(1912年)9月13日、希典は明治天皇大葬の夕に妻とともに自刃して亡くなった。 その直前、梅子は希典により使いに出され、帰宅した時は家の周りは兵隊で一杯であったという。 希典の死後、梅子は友人の紹介で河島精一と結婚する。小生は二人の孫になる。 社内のH氏は希典の妹の子孫で、小生とは血の繋がりはないが、縁者であることに違いはない。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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